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◆ S28.04.15 大法廷・判決 昭和27(マ)148 衆議院解散無効確認請求


判例 S28.04.15 大法廷・判決 昭和27(マ)148 衆議院解散無効確認請求(第7巻4号305頁)

判示事項:
  日本国憲法第八一条と最高裁判所の性格。

要旨:
  憲法第八一条は、最高裁判所が違憲審査を固有の権限とする始審にして終審である憲法裁判所たる性格をも併有すべきことを規定したものではない。

参照・法条:
  憲法81条

内容:
 件名  衆議院解散無効確認請求 (最高裁判所 昭和27(マ)148 大法廷・判決 却下)
 原審  

 

主    文

     本件訴を却下する。
     訴訟費用は原告の負担とする。
         事実及び理由
 案件の判断に必要な範囲において事実を摘示すれば、本件訴は当裁判所が司法裁判所である以外に、始審で且つ終審として、一切の法律、命令、規則又は処分の憲法に適合するか否かを審判すべき唯一の憲法裁判所たる性格をも有することを前提として、特に最高裁判所大法廷に提起されたものであることは、その主張自体に徴して明らかである。
 しかしながら、わが現行法制の下にあつては、ただ純然たる司法裁判所だけが設置せられているのであつて、いわゆる違憲審査権なるものも、下級審たると上級審たるとを問わず、司法裁判所が当事者間に存する具体的な法律上の争訟について審判をなすため必要な範囲において行使せられるに過ぎない。すなわち憲法八一条は単に違憲審査を固有の権限とする始審にして終審である憲法裁判所たる性格をも併有すべきことを規定したものと解すべきではない。この見解の維持せらるべき所以は、さきに当裁判所が昭和二七年(マ)第二三号事件の判決において示したとおりであり、これと反対の見地に出でた原告の所論には賛同するを得ない。
 されば本件訴は、現行法制上認められていない憲法裁判所なるものを想定の上、当裁判所がその憲法裁判所に該当し、しかもその憲法裁判所の所管すべき事案として提起せられたことに帰するのであるが、現行法制上司法裁判所としてのみ認められている当裁判所においては、かかる訴はこれを不適法として却下せざるを得ないのである。
 よつて民訴二〇二条、八九条に従い主文のとおり判決する。
 この判決は裁判官真野毅の補足意見を除く裁判官全員一致の意見によるものである。
 裁判官真野毅の補足意見は、次のとおりである。
 わたくしは、裁判官として憲法を尊重し擁護する義務を負うが故に、そして衆議院の解散問題は日本の政治の現在及び将来に関し重大な意義と価値を有するが故に、年来の所信をここに述べることとした。端的にいえば、わたくしは、本件のごとき解散は憲法に違反するものと考える。その理由は、おおよそ左のごとくである。
 憲法が衆議院の「解散」という文字を使つているのは、七条と六九条の二箇条だけである。そこで、従来の解散に関する論議は、主として、七条により広い内閣の衆議院解散権が憲法上認められるか、または六九条の場合のみに限り狭い内閣の解散権が認められるか、という点に集中されているの観があつた。しかし、わたくしの結論を真先にいつてしまえば、(一)六九条の場合に内閣は、衆議院を解散することを得ると共に、(二)国会が自主的に衆議院解散の決議をすることによつても、解散はできるとわたくしは信ずるのである。
 一 憲法六九条は、「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」と規定している。だから、この規定の前段にあたるときは、内閣は衆議院を解散するか、または総辞職をするか、何れかの一つを択ぶべき義務があり、従つてその反面の解釈としてこの場合に内閣は衆議院を解散することを得るのは疑のないところであり、かつ争のないところである。しかし、これは三権分立の原則から当然に、内閣にこの解散権が認められるというわけのものではない。なぜならば、解散権は、もとより三権分立の意義における行政権に属すべき性質のものではないからである。かように解散権は三権分立の原則には反するが、後に述べる国権の抑制均衡の原則から認められたものであることを先ず銘記べきである。そして、この場合の解散についても、憲法上解散し得るという法律問題と、政治的に見て現実の事態が解散を適当とするか否かの政治問題は、厳格に区別して考察しなければならぬ。法律的に適法な解散であれば、裁判所における問題とはならないが、それがもし政治的に妥当でない場合には、国民に対し政治的責任を負うことは言うを待たない。すなわち、解散後の総選挙において主権者である国民が、十分批判し、自主的な投票を投ずることによつて正しい審判を下すわけである。
 二 次に、憲法七条は、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」と定め、その三号に「三 衆議院を解散すること」と規定している。この規定を根拠として、多くの者は、内閣は広く一般に衆議院を解散する権限を有すると解釈しようとしている。すなわち、政治的な当・不当は別として法律的・憲法的には内閣は、いつ何時でも、自由に、勝手放題に、衆議院を解散することを得るのであり、それで適法・適憲であると解釈するのである(以下七条論者と略称する)。この七条論者のような考え方は、結局誤りであるとわたくしは思う。憲法一条は、日本国の主権は、日本国民に存し、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である旨を定め、三条には、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と定め、四条一項には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定している。それ故、天皇が国事行為を行うには「内閣の助言と承認を必要とし」ていることは、四条ですでに確立された要件である。だから、七条で「内閣の助言と承認により」といつているのは、言わずもがなのことを念のために繰返しただたけのものである。いわば全くの蛇足である。これがなくても、七条の定めるところの国事行為に「内閣の助言と承認」が必要であることは、憲法の解釈上毛頭疑いがない。七条で「国民のために」といつているのも、すでに一条で宣明された主権在民の考えを念のために一層明らかならしめたに過ぎないものである。これも、いわば盲腸的存在である。七条にこれがなくとも、同条の意義には格別の差異が生ずることはない。かようにあつてもなくてもよいものを、活け花の場合のように剪り除いてしまうと、七条の真の姿は「天皇は左の国事に関する行為を行う」という純化した形になつてしまうのである。四条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」といつているから七条ではこれを受けて、天皇の行うことを得る国事に関する行為を列挙したものである。すなわち、七条は天皇の行う国事行為の種類を限定したのに過ぎない。したがつて、この七条は、内閣が衆議院を解散し得るかどうかの権限を定めたものでないことは、法文上極めて明白であるといわねばならぬ。七条論者は、七条三号により、天皇は「内閣の助言と承認により」「衆議院を解散すること」を行うのであるから、天皇に助言と承認を与える内閣は、実質的に衆議院を解散する権限を有すると主張している。しかし、これは七条法文の字句の末節に拘泥し、憲法の大きな原理や、憲法の他の規定を、考慮しない独断的な見解である。大体、前にもいつたように七条における「内閣の助言と承認により」という句は、なくもがなの蛇足に過ぎないのである。七条論者はこの蛇足に取りすがつて、内閣の衆議院解散権を導き出そうとしているが、その態度・方法がすでに根本的に誤つていると思う。だが、三条によつて、天皇のすべての国事行為には、内閣の助言と承認を必要とすることは疑いないし、四条によつて、天皇は、国政に関する権能を有せず、ただ憲法に定める国事に関する行為のみを行うことは明らかである。したがつて、国政すなわち国の統治行為に関する権能は、天皇以外の国家機関に属することも明らかである。国政は、国の政治の実質的・実体的のものであつて、直接間接に国民の利害得失に関することが多大であるから、それが三権分立と抑制均衡の憲法上の二大原則によつて、天皇以外のそれぞれの責任ある国家機関に分配されているのである。これに反し、国事行為は、形式的・儀式的のものであつて、国民の利害に実質的な影響を及ぼすものでないから、日本国の象徴である天皇をして行わしめるとしたのが、四条の精神である。七条三号によつて天皇は、衆議院解散という実体的な国政を行うのではなく、ただ解散に関する形式的な儀式的な手続を行うだけのものである。しかも、天皇がこの国事行為を行うについても、「内閣の助言と承認を必要とし」たのが三条の趣旨である。内閣の助言と承認は、天皇の行う国事行為に対するものであり、天皇の権能に属しない国政に対するものでないことは明らかである。また、三条によつて内閣が負う責任とは、天皇の行う国事行為に対する内閣の助言と承認に対して負うべき責任をいうのである。国事行為の実体である国政そのものに対する責任は、三権分立と抑制均衡の原則により、国政を行うそれぞれの国家機関が負うべきものである。それ故、内閣が天皇の行う国事行為に対し助言と承認を与えること又はこれについて責任を負うことを理由として、衆議院の解散という実体的な国政について天皇ないし内閣に権限があると論ずる七条論者の主張は、全く根拠のない本末をわきまえざる議論である。もし、七条論者のように、七条で内閣が助言と承認を与えるから、国事行為の実体である国政の決定も内閣の権限に属するというならば、七条一号に定める憲法改正・法律の公布の実体たる憲法の改正や法律の制定も内閣の権限に属すると解釈できる不都合な結果を生ずるわけである。この一点からいつても七条論者の誤つていることは明らかであるということができる。しからば、実体的な国政について、いかなる国家機関が権限を有するかは憲法全体の総考慮から判断すべき事柄である。
 さて、わが憲法は、三権分立と抑制均衡の二大原則の基盤の上に立つている。およそ立憲国における憲法は、一人又は一群の少数者が国家権力を掌握する独裁ないし専制政治を排除し、権力の不当独占ないし集中を阻止し、もつて国民の自由と基本的人権を擁護するために、統治権力を分割すると共に、この分割された権力をそれぞれ各独立の国家機関をして行使せしめる機構を定めているのである。そして、通常統治権力を、統治作用の本質により、立法・司法・行政の三作用に分ち、立法権は立法府に、司法権は裁判所に、行政権は行政府に属するものとして、権力の分配を行つている。わが国では一般にこれを三権分立と呼んでいる。これと同時に、この統治作用の本質による三権の分立だけでは、とかく独立割拠の弊に陥り、国政の円満な運営は期待し難いという考慮の下に、各国家機関をして相互に他を抑制せしめ、各機関の間に権力の均衡を保たしめることを目的とする調整作用として抑制均衡(チェック・エンド・バランス)の制度を採り入れている。例えば、本質的には立法権に属すべき法律制定及び本質的には行政権に属すべき行政処分について、違憲審査権が裁判所の権限に分配され、また逆に本質的には司法権に属すべき裁判官に対する弾劾裁判が国会の権限に分配され、一般に裁判官の任命が内閣の権限に分配されているがごときものである。かくて憲法は、三権分立と抑制均衡の二大原則の交錯と調整の基礎の上に成立つている。そして、三権分立によると抑制均衡によるとを問わず、憲法上一つの国家機関に分配賦与された権限は、その機関の活動し得る領域の範囲を画するものであつて、従つてこれはその機関の活動し得る積極的限界である。この一つの国家機関の活動の積極的限界は、とりもなおさず同時に、他の国家機関の活動することを得ない消極的限界であつて、他の機関は恣にこの限界を超えて他の領域を侵犯することは許されない。かくて、憲法上分配された各国家機関の権限は、互に独立であつて、互に相侵すことのできないのが憲法の根本原理である。もし、一つの国家機関に分配された統治権力が、他の機関によつて随意に侵され得るものとすれば、異る二つ以上の権力が同一機関の下に不当にかつ過度に集中することとなり、三権分立と抑制均衡によつて独裁ないし専制政治を排撃し、国民の自由と人権を擁護せんとする憲法の最大目的は、跡方もなく踏みにじられてしまうに至るであろう。
 そこで、再び憲法七条に戻つて考えてみたい。「衆議院を解散すること」は、統治権力の本質からいえば行政権に属しないことは明らかである。七条論者の中には、衆議院の解散は、立法でもなく、司法でもないから、行政権に属するという単純な考え方をするものがあるかも知れない。しかし、これは、三権分立を真に理解していないところから生ずる、間違つた議論である。三権分立は、前にもいつたとおり、国権を平面的にその本質に従つて、立法・司法・行政の三つに分配すると同時に、その分配された権力をそれぞれ独立の国家機関をして行わしめる機構である。ただ単に、国権を三つに分けるというだけでは、何の意味もない。分けられた権力を、各独立の機関が、他から制肘を受けず、自主的に行使するというところにむしろ重点があるのである。なぜならば、いくら権力を三分しても、よしや四分・五分してみたところで、同じ機関がそれを兼有するというのでは、何の曲もなく全く意義がないからである。三権に分配された権力の範囲は、互に他から繩張りを侵されない建前であるから、その分配された各権力を行う各機関は、互に独立であり自主的の存在を有し、互に他の機関によつて根本的に主体性を滅却せしめられることはないのが当然である。例えば、国会は、内閣総理大臣を指名する権限を与えられているが(六七条)、三権分立の原則からいえば、国会は、内閣総理大臣を罷免し又は内閣を総辞職せしめることはできない。これと同様に、三権分立の原則からいえば、内閣は、衆議院を解散することはできない。
 次に、抑制均衡の原則から眺めてみよう。この見地からいつて、内閣は衆議院を解散する権限を有すると見得る憲法上の根拠があるであろうか。この点が本問題の一番の急所であり、最も大事なキー・ポイントである。憲法上行政権は内閣に属する(六五条)。言いかえれば、三権分立の原則により、内閣は行政権を行う権限を分配されている。この本質上の行政権のほかに、抑制均衡の原則により、内閣に賦与されている権限は、六条二項・六九条・七九条・八〇条等において特に定めるものを除き、概括的に七三条において規定されている。すなわち、七三条は、「内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ」と定め、一号ないし五号の中には、別段この規定がなくとも行政権に属するものであるが、旧憲法において天皇の大権とされていた事項もあるから、念のため内閣の権限に属することを明確ならしめたのである。そして、六号には「政令を制定すること」、七号には「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること」を挙げている。政令を制定することは、本質上立法権に属し、大赦、特赦等の恩赦は本質上司法権に属すると見ることができるが、抑制均衡の原則によりこれを特に内閣の権限に属せしめたのである。しかるに、重大な政治的・社会的意義を有する「衆議院を解散すること」については、七三条においては内閣の権限に属せしめられてはいない。ただ僅かに六九条において内閣が衆議院を解散し得る場合のあることを定めているのみである。それ故、抑制均衡の原則から言えば、衆議院を解散することは、六九条の場合を除き、内閣の権限に賦与されていないと論結しなければならぬ。もし、七条論者のように天皇の国事に関する行為を列挙した七条三号に「衆議院を解散すること」とあるだけで、それが内閣の権限に属すると解すべきものだとするならば、七条六号に「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」とあるだけで、同様にそれが内閣の権限に属すると解さるべき道理であり、果してしからば、七三条七号において「大赦、特赦、減刑、刑の執行免除及び復権を決定すること」をわざわざ内閣の権限に属せしめる必要はないではないか。却つて逆に、内閣の権限とするためには七条六号だけでは事足りないから、七三条七号を設けたにかかわらず、七条三号だけで七三条中に何等の規定を設けていないのは、衆議院の解散は内閣の権限に属せしめられていない証拠となるのだ。この点からいつても、七条三号から内閣の権限を導き出すことはできないと言わねばならぬ。旧憲法時代には完全な三権の分立も認められておらず、天皇はいつでも議会を解散することを得たのだが(七条)、この惰勢から来る内閣は衆議院を解散し得るという考え方は、新憲法の下では断然払拭しなければならない。
 さらに視野を広くして、憲法全体から実質的に権力の抑制均衡の実態を考えてみよう。およそ現代国家においで行政権の分野が、逐年拡大強化されていくことは、すべての文明国に共通の現象である。わが国においても、また然りであつて、日常国民の直接に接触する統治権力の大部分は殆んど行政権である。この行政権こそは、現代国家機構における巨大なレバィァザン的存在である。わが憲法の行政権の実質的内容は、それ自体広汎強大なものである。この内閣の首班である内閣総理大臣は、国務大臣を任命し、また任意にこれを罷免することができる(六八条)。それ故、内閣は合議体ではあるが、実際においては閣僚に対し生殺与奪の権を握つている内閣総理大臣の独裁下にある。少くとも容易に独裁下におかれ得る。また最高裁判所裁判官及び下級裁判所裁判官の指名又は任命は、内閣の権限に属する(六条、七九条、八〇)条)。その任命等につき国会・衆議院・参議院その他の同意を必要としない。(米国では連邦裁判官は大統領によつて任命されるが、上院の同意を要する。)その上、七条論者のように内閣が任意に衆議院を解散する権限を有することを認めるならば、内閣の首班である内閣総理大臣は、衆議院に対しこの解散権をひらめかすことによつて、立法府に対しても非常に強大な支配力を及ぼし得る地位に立つことになるわけである。元来国会は、主権者である国民の代表者の集合体であつて、当然国権の最高機関である(四一条)。これに反し、内閣総理大臣は、国会の議決で指名されるものであり(六七条)、内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負うべきものである(六六条)。そして、ここにいう「行政権の行使」とは、三権分立の原則によつて、本質上行政権に属するものの行使のみではなく、抑制均衡の原則によつて、行政府に賦与された権限の行使をも含むことは言うを待たない。すなわち、内閣は、憲法上分配されたすべての権限の行使について、国会に対し責任を負うべきものであると言わねばならね。いわば国会ほ監督者であり、内閣は被監督者である。この関係においては明らかに、国会は主であり、内閣は従である。国会は優位にあり、内閣は下位にある。しかるに、七条論者のように、内閣は、法律上全く自由に、何時でも衆議院を解散することを得るものとするならば、責任を問われる地位にある内閣が、自己に対し責任を追及する立場にある衆議院を解散し、これを抹殺することによつて、法律上責任の追及を不当に免れ得る結果となる。これでは主従の地位の顛倒も甚だしいといわねばならぬ。それは、恰も債務者が、債権者の首をはねる権利をもつことを、認めるに類する滑稽さがあるように思われる。非か。わが憲法のごとく代表制民主制度の下において、主権者たる国民の代表の集合体である国会は、憲法の明文においても国権の最高機関であると謡われているにかかわらず、そして内閣の監督者としてその責任を追及することを得る地位にあるにかかわらず、国会の主要構成部分である衆議院が、被監督者である内閣の欲するがままに、法律上は、全く任意に、勝手気儘に、何時でも、拔打的・闇討的に解散されるというのでは、代表制民主政治は常に基盤がグラグラし、衆議院の生命は二六時中風前の燈火のごとく揺らゆらしている。こんな有様で内閣が活殺自在の劒を握つているようでは、どこに国会の独立と権威があるであろうか。これでは、三権分立も、抑制均衡も、民主政治も、憲法の根柢も、皆共に支離滅裂し、瓦解してしまうではないか。殷鑑遠からず、十数年前にある。あえて、ヒトラーの国会解散の暴政の数々の例を引いて、論証する煩を重ねることを要しないであろう。国会の弱体であるところに、独裁政治は常に頭をもたげて来る。独裁政治の行われるところ、国会はますます弱体化する。国会の強力なところに、民主政治は発達する。国会の強力こそは、独裁政治の出現を阻止する城壁である。しかのみならず、民主政治における選挙は、機会均等を前提とする。すなわち、同等の立場に立つてフエア・プレイによつて投票の獲得を争うことを本義とする。しかるに、抜打解散では、政府与党は野党に比し、不当に有利な立場に立つことは明白である。かようなハンディキャップのついた条件の下に行われる選挙は、公正なものということができないばかりでなく、民意が真に正しく反映して表明されることは不可能となるであろう。民意の真正に表明されない選挙によつては、ほんとうの民主政治は発達せず、美果を結ぶことはできない筈である。
 さらに、七条論者の結論を採れば、前にいつたごとく憲法上内閣総理大臣は、行政府に対するばかりでなく、司法府に対しても、立法府に対しても、甚だしく強大な権力と影響力を及ぼし得ることとなるは必然である。かくては、内閣総理大臣という一人の具体的人格に過度の諸権力が、容易に集中し、その結果独裁ないし専制政治に陥り易きに至ることは、火を見るよりも明らかである。思つてもみるがいい。冷静に、かつ虚心に。彼の太平洋戦争の苛烈な戦火の洗礼を受け、廃嘘のどん底に沈んだわが国民は、何物よりも独裁ないし専制政治の再現を、恐れかつ憎んでいるではないか。こういつた体験と環境と条件の下に出来た憲法を、前述のごとく成法上何ら確たる根拠もないのに、独裁ないし専制政治の再現を容易に招来することを許すような風に解釈せんとすることは、民主憲法制定の根本義を真に理解せざる近眼者流の論であると断言して憚らない。豊かな経験と高い識見を有する尾崎行雄氏は、憲法七条を解散の根拠とするようなことが行われるなら、「すこし気の利いたものが出れば、たちまち北条・足利の時代が再現する」と卒直にキツパリ言い放つている(昭和二四年一月三日読売)。この言やよし。まことに事物の真を洞察した識者の至言である、とわたくしは思う。
 そこで、上述したところを総合すると、わたくしの考えは次のごとくなる。(一)天皇は形式的な国事行為を行うことを得るだけで、衆議院解散という実体的な国政を行う権能を有しない(四条)。(二)内閣は、三権分立の原則からは、衆議院を解散することはできない。(三)内閣が、抑制均衡の原則から、衆議院を解散することを得るのは、六九条の場合だけに限る。(四)わが国会は、代表制民主政治における主権者たる国民の代表者の集合体であつて、国権の最高機関である(四一条)という点からいつても、内閣は衆議院を解散することを得ないのは当然である。(五)内閣は、その権限の行使について、国会に対し責任を負つている(六六条)という点からいつても、逆に内閣が衆議院を解散することを得ないのは理の当然である。
 なお、七条論者の中には、衆議院の多数派の支持を得ている内閣が、やつて行けなくなる場合もあるから、内閣は七条によつて衆議院を解散することができると主張する者もあるが、わたくしをして言わしむれば、その場合には、後に述べるように、国会で衆議院解散の決議をすればよいのである。これから、逆に内閣による衆議院の解散権を認めようとするのは、論理の倒錯に陥つたとものというべきである。また、七条論者の中には、衆議院が正しく国民の世論を代表することを総選挙によつて確認する必要の起きる場合には、内閣は衆議院を解散することができると主張する者があるが、これは全く解散の妥当性に関する政治論であつて、法律論としては、一顧の価値もないものである。
 なおさらに、七条論者の中には、イギリス型の議院内閣制を持出して理由づけようとする学者がある。それは、わが憲法はイギリス型の議院,内閣制を採つた(大前提)、イギリス型の議院内閣制の下では内閣は下院を何時でも解散することができる(小前提)、だからわが憲法上、内閣は衆議院を何時でも解散することができる(結論)と解釈すべきだ、と言うのである。が、これは、全く形式的な三段論法に過ぎない。憲法のどこにも、その大前提の存在する根拠を見出すことはできないではないか。憲法はどこにも、イギリス型の議院内閣制を採つたとは言つていない。強いていえば、欧洲大陸型の議院内閣制の下で認められるような制限的解散に類似する、六九条の規定が設けられているだけのことである。この規定で衆議院は、不信任決議案の可決または信任決議案の否決という武器によつて、内閣と総辞職に追いやる手を打つことができると共に、これに対して内閣は、衆議院を解散するという武器によつて、防戦することができる。これで衆議院と内閣の権力の抑制均衡が保たれるとして、六九条が置かれているのである。この明文規定を超えて直ちに一般的・概括的に、イギリス型の議院内閣制の原理がそのまま全都採用されたものと速断して、この大前提から三段論法を駆使して、一般的な内閣の解散権を論結するのは誤りである。憲法はかかる大前提をとつたと見るべき根拠はない。英国は、君主政治の国であり国会は国民が選び、内閣は国王が選ぶ仕組であるが、日本憲法では、民主政治を採つており、国会は国民が選び、内閣の首班は国会が選ぶ機構を定めている。英国では国王が国会を解散するが、天皇は国政を行う権能を有しない。両者の根本機構の差異を混同しては、正しい解散の法理が生れて来る道理がない。衆議院ないし下院の解散のごときは、世界の歴史からいつて、君主制の下に発達したものであつて、今日においては所詮君主制の遺物に過ぎないものであり、君主制の行われなくなつた国には、全然認められていないか、または制限して認められているに過ぎない。今日において、イギリス型の議院内閣制の原理を、そのまま全部解釈で採り入れようとすること自体に根本的な無理がある。またイギリスでは、多年の伝統による国民的な政治的訓練と自覚があるが、わが国民にはそれが欠けている。それ故、実際からいつても、広い解散権をわが国で認めることは非常な危険と害悪のあることは前に述べたとおりだ。結局、抑制均衡の原則から認められる内閣による衆議院の解散は、六九条の場合だけに限らるべきであり、またそれが適当でもある。
 三 なお次に、このように抑制均衡の原則から認められる内閣による衆議院の解散は、六九条に限るが、だからといつて衆議院の解散を六九条り場合だけに限るとちる考え方も、狭きに失し正鵠を得ていない、とわたくしは思う。憲法の明文の文字に出ていない場合に、解散を認めることはでつきないとする見解は、偏狭に過ぎ正しいとはいえない。他の例をとれば、憲法が「総辞職」という文字を使っているのは、六九条と七〇条の二箇条だけではあるが、その外にも内閣は、自主的判断によつて、何時でも、総辞職をすることを得るのは、一般にも認められているところであつて、恐らく誰も異議のないところであろう。これを法律的にいえば、内閣の総辞職は、内閣が自己に内在する固有の権利によつて行うものであると言うことができる。これと同様に、国会は、自主的判断によつて、何時でも、衆議院の解散を決議することができる。すなわち、国会は、自己に内在する固有の権利によつて、衆議院を解散することを得るのである。ましてや、国会は、国権の最高機関であるという点からいつても、自主的に衆議院解散の決議をするについて、他の機関の制肘を受くべき理由は何もないのである。国民の代表である国会が、国民の与論に訴える必要があると考える場合に、自ら衆議院の解散を決議することは、むしろ国民に対する当然の義務であるということができる。ただ衆議院の解散であるから、衆議院だけの決議でよくはないかとの疑問が一応は起きる。そして現に解散論議が国会で八釜しかつた当時、国会の衆参両院法規委員会で検討した結果、衆参両院議長に対し行つた勧告の要旨として報道せられたものは、解散は、内閣のほしいままな判断によつてなすべきものではなく、衆議院が解散に関する決議を成立せしめた場合は、七条による国事行為が行われるようにしたいというのであつた。衆議院が解散の決議をすれば参議院も恐らく同様の決議をするであろうから、実質的にはこれで妥当なところを捉えているが、法律的見地からみれば、衆議院は国会構成の一部に過ぎず、国会の意思決定は衆参両院の決議によつて成立するものであるから、衆議院の解散も国会の決議によることを要するもoと解するのが相当である。かくて、この解散の決議文又は六九条による解散があつた場合には、形式として七条三号に定める天皇の国事に関する行為が行われるわけである。(なお、解散は、当不当の政治問題である限りは、裁判所の審判すべき事柄ではないが、適法不適法の法律的争訟として訴えられて来れば、適法な法律手続に従つて、裁判所の審理すべき事柄となる。この点は今は詳しくは述べない。)
 最後に、本件について見るに、前記のように国会の解散決議もなく、また六九条の場合にも当らないのに、内閣が行つた本件解放そのものは憲法に違反し無効である。しかしながら、原告の本訴主張自体は、多数意見の認めているとおりのものであつて、多数意見の判示しているとおりの理由によつて、本訴は訴訟手続上の不適法があるものとして、却下する外道がないのである。
     最高裁判所大法廷
         裁判長裁判官    田   中   耕 太 郎
            裁判官    霜   山   精   一
            裁判官    井   上       登
            裁判官    栗   山       茂
            裁判官    真   野       毅
            裁判官    島           保
            裁判官    斎   藤   悠   輔
            裁判官    藤   田   八   郎
            裁判官    岩   松   三   郎
            裁判官    河   村   又   介
            裁判官    谷   村   唯 一 郎
            裁判官    小   林   俊   三
            裁判官    本   村   善 太 郎
            裁判官    入   江   俊   郎