私もボスも多くの教えをうけている西尾幹二先生の新著、「江戸のダイナミズム」がこの1月26日に上梓されます。

江戸のダイナミズム

 

 

 

 

 

 本稿の初稿は、雑誌「諸君」の2001年7月号の第一回目から、2004年9月号の第二十回完結稿まで、3年間にわたって断続的に連載されたものです。

 西尾さんは、この「江戸のダイナミズム」について、以下のように触れています。

 

最後に「急ぎません」と書いたのが仇をなして、本当に時間かかってしまったのです。この前後に『男子、一生の問題』を出したのを皮切りに、『民族への責任』『日本人は何に躓いているのか』『人生の深淵について』『新・国民の油断』(共著)を相次いで出版して、それから小泉総選挙にぶつかり、『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を書いたことはまだ皆さまのご記憶にも新しい処だと思います。

 ほかに再刊本二冊(『日本はナチスと同罪か』『人生の価値について』)をワック出版から出し、ショーペンハウアーの主著の旧訳も中公クラシクスで刊行してもらいました。正直私は『江戸のダイナミズム』の完成には研究のし直しの必要もあり、整理と修文が簡単でないことを予感していて、しばらく他の仕事に逃げていたいという思いも多少はあったのです。

 あの本はいつ出るのかという期待の声を八方から耳にしました。「つくる会」内紛よりもずっと前に作業を再開していましたが、やってみると、もう一度書き直すくらいの労力を要することに気がつきました。新しい難問に次々とぶつかり、補説の必要も生じ、膨大量の注の作成その他にも手間を取り、担当編集者にも苦労をかけ、溜息の出る思いのすることが何度もありました。(「西尾幹二のインターネット日録」 「謹賀新年」から)

      当方の事務所としては、この書籍や西尾さんに関しては、実はいろいろな感慨があるのですが、安易にして、感傷的な書評や、論評はさけたくおもいます。

  ただただ、この一冊。こうした書籍に出会えることの僥倖をみなさんと、分かち合えることができたらとおもいます。

  また、西尾さんの「西尾幹二のインターネット日録」が2007年1月25日をもって休載となりました。
  だた、最後のエントリーである「日録」休載のお知らせを読むと、ここにも西尾イズムに満ちあふれていることに気づくでしょう。
  ここにも、安易な感傷や感慨が入り込む余地はありません。

 

 

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江戸のダイナミズム 西尾幹二著

目次

登場人物年表  4
第一部  前提編

第一章    暗い江戸、明るい江戸 10
第二章    初期儒学者が見据えた「中華の『華』はわが日本」 27
第三章    日・中・欧の言語文化ルネサンス 48
第四章    古代文献学の誕生――焚書坑儒と海中に没した巨大図書館(アレクサンドリア) 66
第五章    ホメロスとゲーテと近代ドイツ文献学 88
第六章     探しあぐねる古代聖人の実像 111
第七章    清朝考証学・管見 137
第八章    三段の法則――「価値」から「没価値」を経て「破壊と創造」へ 164
第九章    世界に先駆ける富永仲基の聖典批判 187

第二部 展開編

第十 章      本居宣長が言挙げした日本人のおおらかな魂 216
第十一章   宣長と徂徠の古代像は「私」に満ちていたか 241
第十二章   宣長とニーチェにおける「自然」 269
第十三章   中国神話世界への異なる姿勢――新井白石と荻生徂徠  295
第十四章   科挙と赤穂浪士 325
第十五章   十七世紀西洋の孔子像にクロスした伊藤仁斎 353
第十六章   西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』 383
第十七章   万葉仮名・藤原定家・契沖・現代かなづかい 414
第十八章   音だけの言語世界から誕生した『古事記』 456
第十九章   「信仰」としての太陽神話 489
第二十章   転回点としての孔子とソクラテス 519

注 549
あとがき 583
参考文献一覧
人名索引 /書名索引 /事項索引


 「登場人物年表」という日中欧の思想家の名の年代差を示す表が興味を引くはずですが、本を開いてみていたゞくしかありません。代りに、広告帯の裏面にのせられた「あとがき」からの短い抜粋文を掲示しておきます。

 限りなき神の世界の探求
 地球上で「歴史意識」というものが誕生したのは地中海域とシナ大陸と日本列島のわずか三地点です。そこで花開いた「言語文化ルネサンス」は文献学の名で総括できますが、それは単なる学問ではありません。認識の科学ではありません。古き神を尋ね、それをときには疑い、ときに言祝ぎ、そしてときにはこれの背後に回り、これを廃絶し、新しき神の誕生を求めもする情熱と決断のドラマでもありました。


(本書・あとがきより)

 この本は可能な限り学問的手続きを踏んでいますが、学者の研究書ではありません。私は学者という存在を信用していないのです。学者は「評価」を逃げるからです。歴史上の人物を列記して、記述していく場合に、大抵の学者は歴史上のどの人物をも平等に扱おうとし、どれをも良しとし、良し悪しの価値のアクセントをつけません。

 私はこの本で新井白石、荻生徂徠、僧契沖、本居宣長の四人に例外的特権を与えています。さらにその中でも徂徠と宣長を上位に置きます。それ以外の思想家もたくさん扱っていますが、価値の上で明らかに差別しています。例えば伊藤仁斎には低い評価を与えています。勿論その理由を明記しています。

 ヨーロッパと中国の古代をどう評価し、どう理解するかもこの本の眼目の一つです。ギリシア・ローマの古典古代はアラビア人の歴史に属するのであって、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアに独自の古代はありません。他方、中国に近代はなく、中国はいまだに古代専制国家体制のまゝなのかもしれません。

 ここでいう「近代」というのは丸山真男が荻生徂徠に託して「主体性」の名において語った単眼的な内容のものではありません。近代性は神秘の反対語ではないのです。神秘を信じ、かつ否定し、神の背後に回ってこれを懐疑し、しかるのちさらに神を探求し、模索し、新たな神秘を決断する精神のことです。

 宣長にも徂徠にもそれがあります。ニーチェやドストエフスキーのような人神思想が日本にはあって、中国にはありません。たゞし明治以後の日本にもそれらはありません。明治以後の日本に存在を許されたのは思想の教師であって、思想家ではありません。江戸に比べると明治以後の日本は恐ろしく平板で、見窄らしいのです。

 まあ、そんな説明をいくらつづけても仕方なく、本を読んでいたゞくしか方法がないのですが、私はこの本で日本の思想界に一つの新しい価値の標識を掲げようと企図しているのです。

 それがどれくらい分ってもらえるか判然としない不安が私を捉えているのではありません。私が先に暗示した「空虚感」とは、世間から理解し、評価してもらえるかどうか分らない不安なのではなく――そんなことを私はこの歳でとうの昔に卒業しています――私の指し示す神がまだ不確かで、私の目指した価値がまだ歴史の岩盤に届いていないのではないか、という不安なのです。

 私はまだ到底覚束ない身なのに、仕事のできる残された年月は短くなり、この本を起点に次をどう探求したらよいのか、次第に選択の可能性が小さくなっている昨今の不明が私を迷わせているのです。

 道なお遠く、歩みは遅々としていて、目標だけが見えるがゆえの不安なのです。

江戸のダイナミズム 西尾幹二著

西尾幹二の著作

以上

担当:北岡隆志