赤塚不二夫さんが死去した。
 実は、当方の北岡記者はひょんなことから、赤塚不二夫さんの「最後の奥さん」眞知子さんと交流があった。
(注意:赤塚不二夫さんには、「前妻」と、前妻のすすめにより再婚した「真智子」さんがいる。真智子さんは、2006年7月12日に56歳でなくなっている。よってここでは、真智子さんを、「最後の妻」と表現)

 まず、赤塚不二夫 に関するニュースから、


赤塚不二夫さん、闘病中もギャグ作り
サンケイスポーツ, Japan -
日本中を笑いでいっぱいにした赤塚漫画のキャラクターたち(C)赤塚不二夫【フォト】 ギャグマンガのパイオニア、赤塚不二夫さんが2日、帰らぬ人となった。平成14年に倒れて以来、長く病と闘ってきた巨星も72歳での復帰を果たせなかった。病院にかけつけた漫画家 ...
おそ松くん・バカボン…「ギャグの神様」赤塚不二夫さん死去 読売新聞
赤塚不二夫さんが死去 ギャグ漫画で絶大な人気 中国新聞
赤塚不二夫さん死去:「昭和」またひとつ消えた 毎日新聞

 

「よく笑った。残念」=赤塚不二夫さん死去で−自民・麻生幹事長
時事通信, Japan - 7 hours ago
漫画好きで知られる自民党の麻生太郎幹事長は2日夜、漫画家の赤塚不二夫さんが死去したことについて、都内で記者団に「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で、(『おそ松くん』に登場するイヤミの)『シェー』はじめ、よく笑った。ちょっと残念だ」と語った。 ...

 また、赤塚さんを知るには、「こうした記事も見て欲しい」と北岡記者はいう。


舞鶴入港50年、行事多彩に 引き揚げ最終船 「岸壁の母」案内板除幕も
京都新聞, Japan - Jul 3, 2008
赤塚不二夫さんら「中国引揚げ漫画家の会」作品展も。このほか、8月3日には引揚記念公園でシベリア抑留体験者らでつくる「朔北(さくほく)会」(2004年解散)が1979年に埋めたタイムカプセルを開封する。 実行委は「忘れられつつある歴史とその意味を考えて ...

 ここからは、北岡記者の原稿です。

 

 ある雑誌社から、「天才バカボン」の「バカボンのパパ」ということで、原稿に、まとめてみないか?という依頼があった。
 その編集者によると、赤塚さんは満州生まれ。父親は憲兵だった。終戦で父親はソビエト軍に連行される。のこされた家族は、1946年に日本に引き揚げる。赤塚さん、11歳の時である。


 「バカボンのパパ」のモデルは、この赤塚さんの、「憲兵でソビエトに連行された実父」だといわれていた。それについて、取材してみないか・・・・ということだった。これは当時のボスでさえ、「おもしろい!満州から、シベリアまで全部取材してこい!そして、バカボンのパパについて書いてみろ!」といったぐらいだから、私も当然、動かされた。当時の事務所は、今とちがって、結構の利益がでていたから、それぐらいの取材費は、「事務所負担でいい」(ボス談)ということだった。

 その編集者に連れられてあったのが、当時、フジオ・プロの代表者だった真智子さんだった。実は、この時点で、赤塚さんは、アルコール依存症になっていた。
 真智子さんは、赤塚さんにとって2人目の妻だった。聞いて、驚いたのは、赤塚さんの前妻が、真智子さんに結婚をすすめたという。真智子さんは、フジオプロのきりもりするとともに、赤塚さんのアルコール依存症の治療もしていたのだった。


 赤塚さんは、2002年に、脳内出血をおこして倒れた。真智子さんは、看病とともに、2003年には、東京青梅市に、「赤塚不二夫会館」をつくったり、オンデマンド形式の、赤塚不二夫全集、全271巻を刊行した。しかし、赤塚さんの看病をしてきた真智子さん本人が、2006年7月12日にクモ膜下出血で急逝してしまうのだ。
 

 真智子さんの最後のブログがある。
 今、みたら現在も閲覧できるようだ。
 紹介したい。

これでいいのだ!! マチ子さんの看護師・社長・小姑・ママ母・料理人・小悪魔…そして妻、日記

 

2006年07月17日 11時44分

ありがとうございました。

当ブログの執筆者赤塚眞知子ですが、去る7月12日くも膜下出血にて帰らぬひととなりました。
6月22日に発病して以来懸命の治療を続け、一時はブログの口述筆記をするまでに回復しておりましたが、悲しいおしらせをすることになってしまいました。

短い間でしたが「マチ子さんの日記」をご愛読いただきまして、ありがとうございました。

株式会社フジオ・プロダクション

 

告白します!
2006年06月26日 13時25分


日にち、空いちゃってごめんなさい。
強迫観念にかられて病気になっちゃった(-。-;)
そんでもって、手術しちったの。
今、ICU(集中治療室)。

全部で2週間は、ICUです。
フジオちゃんもいたICU、つきそいしてたのに、今度はわたしが
入っちゃった、なんか、懐かしくて(⌒ー⌒)
だから今、書きたいけどあんまり書けないのよ。
口も達者だし、手も書けるけど、病院に怒られる。


かしこい頭の病気なの(・_・)

じゃ、またね。

(本人談/ICUより愛をこめて)

 

  これで、私の、「バカボンのパパのモデルで、憲兵でソビエトに連行された実父」の取材は、途中で挫折したことになる。
「漫画は漫画。漫画の夢を壊さないでほしい」と、赤塚さんと交流のある著名な漫画家にいわれたこともある。
 フジオ・プロにとって、けっして歓迎すべき取材でなかったかもしれない。しかし、真智子さんは、「私は何もしりませんので協力できませんが」といったが、この私の取材に対して、「止めてくれ」とは決していわなかった。

 肝心の取材は挫折しつつあったが、実は、当時の満州の状況、当時の満州における憲兵の役割、満州における赤塚家の様子、そしてソビエト軍に連行された日本軍兵士の話、満州からの引き上げの状況などについては、基本的な文献の収集や、状況取材は済んでいた。一冊にまとめるには、十分な量はあった。
 問題は、その時代状況と、「バカボンのパパ」のイメージをどう重ねるかだった。これは、難航した。

 真智子さんが、急逝したときいて、ボスがいった。


「北岡。もう、いいだろう!『天才は、その天才までもギャグにする』。だから、赤塚不二夫なんだろう。だから、真智子さんも支えてきたのだろう。オレは、よーわからんが、きっと、そうだろう。無理に強引に書くことはない。ここで、無理するとおまえは、一生後悔するかもしれない」(当時:ボス談)

 

 実は、これは大変にショッキングな、ボスからの通達だった。
 すぐには、承諾できなかった。すでに、それなりの取材費を事務所経費から捻出していたし・・・・。
(当時、私は、金勘定のできないボスや辻野記者の代わりに、事務所の経理を担当していたから、その事情はよくわかる立場にいた)

「うん?オレと辻野が銀座で飲んだ!どこぞの温泉街でどんちゃん騒ぎの芸者遊びでもした!ということにしよう。いや、それがいい!いや、そういうことだ!
 それでいいのだ!」(当時:ボス談)

 

 最後にひとつ紹介したい・・・・
 2008年2月24日に、ちばてつや氏が、赤塚不二夫氏を見舞っている。
 その時の似顔絵だ。

 

 「お見舞いで」2008-02-24

 

 やはり、「天才といわれ、その天才さえギャグにした」のだろう。
 ご冥福を祈りたい。

 

 合掌

 北岡隆志拝