これもテレビのワイドショーの影響かもしれん・・・・から書いておけ・・・。

 とはボスです。

 つまり、ブログという誰でも評論できる表現方法がうまれて、ま、これはこれでいいことだが、評論家予備軍がふえた。
 テレビのチャンネルをあわせると、お笑い芸人から、タレントから、作家まで、みな評論している。
 政治のジャンルでいうと、政治評論家真っ青!!!!!
 政治記者でさえ、評論している!!!!
 記者でさえジャーナリズムという名目で評論している!!!

 つまり、評論家予備軍のブロガーさんからみると「あれなら、オレでも評論できる」と勘違いするのは正しい。

 しかし、勘違いは「ブログの範囲内」にしておいたほうがいいというお話です。
 

 


「評論家は、媒体の必要性や要求値によって、評論する。つまり、テレビやラジオならプロデューサーや、ディレクターの意向。新聞や雑誌でいう編集局長や編集長の意向。つまり、その意向にそって評論しているわけです。臨機応変、変幻自在が評論家に要求される。それぞれが、勝手にしゃべっているわけでない。
 評論家は間違えてもいい。その守備範囲は評論だから。
 しかし、記者がその事実認定を間違えると、厳しい糾弾をうける。
 いや、受けてしかるべき。
 オレもたくさん、糾弾されてきた。間違いもあった・苦笑い。
 これが、ジャーナリズムと評論の決定的な違い。
 一般のブロガーさんに、ジャーナリズムを求めるつもりはない。土俵がちがうからだ。
 ただし、その個人のブロガーでしか、知り得ない知識や情報や、経験や蓄積がある。これは、充分にジャーナリズムにたえることができるものであるとおもう。
 また、一人の記者が取材でとってこれる事実は、ひとつかふたつしかない。万能の情報はとれない。
 しかし、そのひとつの事実の認定。ひとつの事実の発掘の連続によって、ジャーナリズムは成立している。それをもとに評論するのは自由だが、評論はそうした事実の認定の積み重ねの上にあることを、忘れてはいけない。
 評論家予備軍や評論家志願者は急増している。
 しかし、記者志願者は減っている。
 ジャーナリズムという名目の評論志願者はたくさんいる。
 しかし、記者はへっている。
 記者は、取材ができなくなれば、それでおしまいである。
 黙って引退するべきである。
 安易に評論への転向を企てるべきでない」(当方ボス談)

 確かに、評論できる人はふえているが、取材できる記者はへっている。
 たぶん、うちのボスもそろそろ、「ご用済みになるだろう」(ボス談)と本人がいっている。

 ということで、記者の現場は「使い捨て論理」が機能する。
 使い捨てにされるから、記者なのだ。
 
 うん?それでもあなた、「自分の息子(娘でも可)を記者にしますか?」(北岡記者談)

 さあ、記者はここが、頑張りどころだ・・・・
 ということで、全国の記者さんへのエールでした。

 

以上