我、老いてなお快楽を求めん―鬼六流駒奇談 (The New Fifties)

 とある日、某出版社の文芸編集者が浜田山の団鬼六邸を訪れた。
 用向きはこのところ社会の注視を浴びている「老いの性」をテーマに、斯界の第一人者に書き下ろしエッセイの執筆依頼だった。文芸編集者のA氏は四十代半ば。挨拶もそこそこに滔々とSM論を熱く語り始めた。
 夜来からの徹夜原稿で未だモーローとしている鬼六先生、自慢の銀髪はボサボサ、それでもニコニコ肯きながらA氏の話に耳を傾けている。

「でありますから、私の見るところ、団先生は二十一世紀のマルキ・ド・サドとも言うべき官能小説界の至宝だと確信しています」
「フムフム。で、君の理想の女性像って」
 滑舌も絶好調のA氏、待ってましたとばかりに
「谷ナオミ演じる『花と蛇』の静子夫人です。彼女こそ泰西絵画に於ける究極の女性美、アフロディティのヴィーナスと我が国の被虐のシンボルが渾然一体となって……」
 と、またしても延々と熱弁が続くのだった。

「長々と失礼しました。ところで肝心の先生の女性の理想像とは」
そら君、やらしてくれる女が一番に決まってるよ
 凍りついたように固まったA氏。二の句が告げないで目は宙をさまようばかり……でありました。

 団鬼六が嫌うのは理屈である。とくに知識をひけらかすように理路整然と持論を話すA氏のようなタイプが気に召さないのだ。ただ、気に入らないからと言って真っ向から論破したりはしない。必ず皮一枚残す。敵が理屈に酔い痴れるピークを狙って“やらしてくれる”といったいかにも下卑た表現で瞬間冷凍してしまうのだから始末に負えない。
 これこそが団鬼六一流のユーモアであり、人間観察の基本なのである。

「我、老いてなお快楽を求めん」(4月28日講談社刊)が売れている。

 

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