ボスの長年の友人である長沢美沙子さんより、寄稿をいただきました。長沢美沙子さんは、多才で様々な活躍をされている方ですが、肩書きは、「主婦」としてください。ということなので、主婦です。

 ま、個性豊かな友人が多いボスですから、いわゆる主婦にボスの友人がいたとしても何も不思議なことではありません。不埒な想像はしないように。
 原稿の原題タイトルは、「略奪と喪失」になります。
 しかし、本ブログへの転載にあたって、
追悼:ファトヒ・アブドルハミードさん。君はパレスチナをみたか?」と当方のほうで、させていただきました。(初出については、末尾に記載)

 ファトヒ・アブドルハミードさんの名前を知っている方は、何人いるでしょうか?初代PLO駐日代表(現駐日パレスチナ常駐総代表部・General Mission of Palestine-Tokyo)です。

  PLO駐日代表(現駐日パレスチナ常駐総代表部)は、1977年に設立。しかし、PLOの財政難から1995年に閉鎖されました。
 しかし、2002年にアラファト議長のもとで海外拠点の見直しを進めた。5大重要拠点として米、ロ、中、日、欧州連合(EU)が挙げられ、2003年になって、約8年ぶりに再開。現代表は、ワリド・シアム駐日総代表部代表です。

 ファトヒ・アブドルハミードさんは、初代PLO駐日代表として、1977年から1984年まで駐日していた。この間、1981年11月にアラファト議長が日本に初来日している。
 当時、洟垂れ小僧だったボスなどもこの時に交流を得たらしい。
 ボスがいうには、「ハミードさんは、PLOの闘志であり、政治家だったかもしれないが、実は、一人のジャーナリストだった。ジャーナリストとしてハミードさんの側面はあまり語られていない。しかし、今回、長沢美沙子さんは、ジャーナリストとしての、ハミードさんの姿を表現してくれている」という。
 ボスは、時々、普段のいい加減さと裏腹に、真顔になって、
「ジャーナリストとして一番影響をうけたのは、ファトヒ・アブドルハミードさんだった」さらに「もしかして、オレはハミードさんと出会うことがなければ、この職業を選択していなかったかもしれない」という。 
 PLOの政治家でありながら、政治のブロパガンダとジャーナリズムの一線をつねに越えることのなかった人だともいう。
 その影響か、ボスは「アジビラみたいな記事を書く」ジャーナリズムの手法を忌み嫌う。
「政治的なプロバガンダとジャーナリズム手法が一線をこえた段階で、ジャーナリズムは自滅する」とわけのかわらないことを、時々いうけど、このベースはハミードさんにあったらしいのだ。、
 しかし、これをきいても誰もピンとこない?そこで、今回、この秘密のベールがひとつ明らかになることになる。(そんな秘密だれもしりたくないか?・笑)
 ハミードさんについては、それこそ、長沢さんの原稿を読んで欲しいのだが、2000年1月14日に永眠されている。
 そこで本ブログのタイトルには、
追悼:ファトヒ・アブドルハミードさん。君はパレスチナをみたか?
 とさせていただきました。

(担当&入稿:北岡隆志)

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「略奪と喪失」
長沢美沙子

 2005年11月末、私はパレスチナ/イスラエルに向かった。完全にプライベートな旅で、パレスチナは1999年春の家族旅行以来だった。

パリで目が覚めたら

 「闇と悲しみの地」パレスチナとイスラエルでの2週間の一人旅を終えて、私はパリに2泊した。夜遅くに到着したフランス人の友人のアパートで朝を迎えた私は、不安にかられていた。パレスチナでの緊張がまだ続いていたのか。悪い夢を見て目が覚めたのだった。
 朝のコーヒーを飲み始めるとき、友人にその夢について話した。「イマジン! このパリがドイツ軍の手に落ちて、どこの道路の標識もドイツ軍の将軍や政治家の名前に変えられてしまったの。学校でも役所でもバスに乗ってもフランス語を話すことはできなくなって、あちらにもこちらにもドイツ兵や警察が立っているし、フランス人の住んでいたアパートや家にはドイツ人が住んでしまい、フランス人たちはイタリアとかベルギーとかに逃げて、もう戻れなくなるか、残って外国人として生きるか、モナコやブルターニュに押し込められて生きていくしかないの。そうなったら、どうする? そういう夢を見たの。」すると、「実際に、そうなったんだ。」という言葉が返ってきた。そう、そうだった。かつてフランスはドイツの占領下で闇の時代を経験したのだ。「パレスチナというところは、そういうところなのよ。今でも。パリがそうなった夢、怖かったわ」と続けて私が言うと、友人は驚いたような深刻そうな表情を見せた。
 パレスチナは今も陰湿な闇の中に放り出されたままだ。人々は自分の国で異邦人として、屈辱を胸に封印しながら暮らしている。
  
ナブルスの大学は政治の最前線

 西岸に着いた私は、ラマッラーからナブルスに行くことにした。トルコの影響と深い歴史の薫りが漂うこの町の旧市街は、2001年からのイスラエル軍侵攻の爪痕はあるけれども落ち着きを取り戻したように見える。商いもぼちぼちやっている。検問所からの乗り合いタクシーの中で知り合いになったスペイン女性の買い物に付き合って旧市街を歩いた。それからアンナジャーハ大学で医学を教えている彼女のオフィスに連れて行ってもらった。大学の正門の向かいだった。
 正門のあたりには警官の姿が目につき、異様な緊張感が漂っている。学生同盟の選挙の日だとわかった。学生たちは緑、黒、赤、白と黒のそれぞれの色に染めた帽子や鉢巻き、あるいは旗で身をくるんだり、車に飾って走らせたり、高々と旗をなびかせて正門の前を群れて歩いている。続々とキャンパスに入っていく学生たちは投票に行くのだろう。白と黒(ファタハ)と緑(ハマス)とが拮抗していて、昨年はかろうじてファタハだったけれども、今年はハマスが勝つのではないかと言われていた。実際、緑がとても多かった。結果はかなりの差がついてハマスが勝ったと翌日聞いた。シャレク(SHAREK Youth Forum)というスイスの援助を受けたNGOのオフィスや託児所、自治政府関連の事務所などを訪問した後、ナブルスが誇るクナーフェという暖かいチーズのお菓子を買ってラマッラーに戻ることにした。

パレスチナ人が見たくない

 「日本からはるばる西岸に旅行にやって来ているだって? どうして? いったいここで何をやっている?」ナブルスからラマッラーへの道に設けられた検問所を通過して歩きだしたばかりなのに再び止められ,パスポートを念入りに点検した軍服の若者が嫌みたっぷりに言った。「いったい何をここでやっているの?」と聞きたいのは私の方だ。「旅行が好きなのよ。どうしていけないの? だいたい人間には移動の自由があるのよ。権利でしょ?」しっかり理解してほしいよ、まったく。そもそもそんなところに立ってパレスチナ人を見張るのって違法なことではないの。おまけに重装備しちゃってさ。
 検問所を通過できたときは、やっぱりほっとする。そもそもベングリオン空港に降り立って、さて入国というときに別室に連れて行かれてあれこれ聴かれたときの嫌な記憶が消えない。その体験が検問所を通るたびに私を緊張させる。パスポートにあるレバノンやヨルダンなどの入国ビザやスタンプが気に入らないらしい。私は怪しい人間なのだ。
 検問所のレイシスト兵から解放されて再び歩き出したとき、2人の女性が立っているのが目に入った。「Human Rights for Women」と書かれたタグを首からかけている。私の安堵感とうれしさ。私でもこんなにうれしいのだから、パレスチナ人の女性たちにとってどれだけ励ましと安全の保障になることだろう。後でイスラエルの友人に聞いたら、毎日立っているわけではないし、一日中立っているわけではないが、イスラエル人のボランティアが交替で立つようにしているのだそうだ。
 検問所に立っているイスラエルの若い兵隊たちの多くは、弱い側の立場になることを恐れている。パレスチナ人たちを見ることを恐れている。抑えつけられ続けねばならない人たちだと信じるように仕向けられている。その存在を認めることを避けている。

少年スリと麻薬

 東エルサレム、エルサレムの旧市街の状況はかなり心配だ。99年の春、子どもたちの表情が暗く、すさんでいたのを思い出す。その翌年に再燃したインティファーダの兆しがすでにあった。2005年の暮れ、そこには盗賊団まがいのパレスチナの少年たちがいた。
 午後2時。ダマスカス門の近くにいた私がバス停にむかって歩いていると、「2シェケル、2シェケル」と絵はがきを見せる男の子がいる。買う気はなかった。でも、懇願する目を見て、気が変わり、財布を出し、お金を探した。と、14才くらいに思われるその少年の片手が私の鞄の中に侵入しているのが見えた。即座に私は財布を鞄に戻してさっさと立ち去った。ラマッラーに行くためにまずカランディアの検問所に行かなくてはならない。カランディア行きのバスがどれかと聞きながら振り返らず前だけを見て進んだ。そして目当てのバスに乗ろうとして、4シェケルを探すが、財布がない。どうして? えっ、あの子が盗った?そんな!!だが、彼はもういない。パニックになった。心配そうに声をかけてくれた何人かの子どもたちのなかに、50代くらいの女性を見つけ、私は彼女に助けてもらうことにした。一緒にサラハッディン通りに向かって歩いていった。彼女は言った。「ドラッグが蔓延しているのよ。顔を覚えている?探してみて。」広場に来て見渡すと、少年たちが何もしないで、いくつかの固まりになって立っている。それも大勢...。
 あきらめて、しぶしぶサラハッディン通りの警察に入った。私の財布の盗難についてのんびり聞き取り調査する警察官とのやり取りは,私を一層神経質にした。イスラエルの警察官と顔を突き合わせていると、苛々させられる。ここにいる私はパレスチナ問題のアイロニーそのもののよう。
 エルサレムの少年たちのドラッグ漬けは、希望を奪われたパレスチナ人たちの状況を浮き彫りにしている。そもそもドラッグを少年たちに売りつけたか、背後にいるのはイスラエル人らしい。ドラッグなしで生きられなくなった少年たちはドラッグを買うために観光客の財布を盗む。ドラッグに走るパレスチナ人の若者たちは、政治に関心なんて持たなくなる。そして、窃盗やスリの犯罪多発地帯というレッテルを貼られた東エルサレムとパレスチナ人の悪評が広がり、麻薬の売人は儲かる。それがからくりだろう。

西岸を北上するハイウェイから

 大事なものが入った財布を奪われて、悲しく、そして悔しかった私だが、気持ちを切り替えてハイファに行くことにした。翌日早朝、ハイファの病院に行くエルサレム近郊の夫婦が予約していたタクシーにただで乗っけてもらうことになった。知り合いの日本人記者から現金も借りたし、なんとかなるだろう。
 エルサレムからハイファに行くのにとったルートはジェリコ経由で西岸の東をヨルダン川に沿ってまっすぐ北上するもの。3時間もかからず到着できた。
 すいすい進むそのルートの左右に広がる広大なキブーツや入植地のなかに、たまにパレスチナ人の農地がある。これが西岸地区なのか。その後でハイファに向かう道沿いに見えた2つの大きな監獄は灰色の窓のない建物だった。運転手は、ここを通るたびに、自分の無力を思いつつ、憎しみと悔しさを蓄積してきたに違いない。
 何もかも根こそぎ盗み取られたパレスチナ人の喪失の規模に比べ、私の失ったものは何とちっぽけなものか。流れる景色やヘブライ語で書かれた沿道の標識や地名を眺めながら、そう思えてきた。エルサレムでの不幸な私の経験は、とてつもなく大きな略奪被害に遭いながら、テロリスト呼ばわりされて、その生存さえ日々脅かされ続けているパレスチナ人の傷と苦しみの深さを心底体感させてくれるものだった。そういう機会を神から与えられたのだとすら思った。
 ナチスからジェノサイドの恐怖体験を経たユダヤ人たちの苦しみは計り知れないが、それは長くて10年。60年間にわたって苦しめられ続けているわけではない。 
 
北部イスラエルの風景

 ハイファで再会したパレスチナ人のS氏にハイファと北部イスラエルを案内してもらった。数ヶ月前に日本の漁船を沈没させて逃げたイスラエルの船会社のオフィスが見えた。あの事故は、イスラエルが西岸でやっていることと同じことだと、ハーレツ紙が書いたそうだ。私もそう感じていたのだが。イスラエルの占領政策はイスラエル人のメンタリティを否応なく形成していくのだろう。
 記憶にとどめたい風景が多くある。ナポレオンがどうしても陥落させることができなかったアッカの旧市街、ナザレに向かうハイウェイから見えたパレスチナ人の村の廃墟の数々、その上につくられた国立自然公園、ドゥルーズとモスレムとクリスチャンが仲良く暮らしている静かな町、イスラエルが存在を認めず地図にもなく電気も供給されない僻地の村々、周囲を厳重な壁で隠した軍需工場。化学プラント。風の吹きだまりとなって朽ちるまま放置されたのティベリアスのモスク。
 ナザレの数ある教会のいくつかでアメリカ人やイスラエルのユダヤ人観光客に出会った。イスラエルのガイドが、「モスレムはこの地のキリスト教の教会をいくつも破壊しましたが、我々が建て直し、復元したのです」と信じられない説明をする。ほかにも外国人観光客グループに、同様の塗り替えられた歴史の説明を聞かせていた。嘘、偽りが横行する世界で生きるS氏の辛さを目の当たりに見る。
 そして私の怒りはむしろイギリスへと向かう。シオニスト指導者の犯罪に手を貸したその罪の重さを問わずにいられない。今イスラエルはアメリカの手を借りて犯罪を続けている。強大な国の力を借りなければ、ひとたまりもなく消えるのがイスラエルなのだ。
 夕暮れの中、ハイファからヤッファを目指して乗り合いタクシーに乗った。土曜日の夜はハイウェイが渋滞する。ネタニヤを通過するとき、何故だろう、ここで自爆攻撃があっても不思議ではないなあ、という想像が頭をかすめた。その2日後、出国する日の正午近く、ホテルに戻るとロビーのテレビは少し前に起きたばかりのネタニヤの自爆攻撃で4人が死亡したというニュースを報じていた。すでに私の頭の中に描かれていた事件だった。あるパレスチナ人が言った。「こういうことも必要なんだ。イスラエルのユダヤ人たちに知らしめなくてはならない」と。私はその言葉を理解していた。かなしいことだが。
 
おそろしい壁 崩れるべき壁

 滞在最後の日に、どうしても一目見ておかなければとベツレヘムに行くことにした。
 オープンしてまだ日が浅い検問所をタクシーに乗って5分ほどで通過し、ベルリンの壁の2倍の高さでそびえ立つ壁の門を通って入った。地球の底に沈んでいるような錯覚。これは「闇の中の光」であったイエスの誕生を祝う意味をもつクリスマスを前に、世界中のクリスチャンが知るべきものだと強く思った。そして、ベツレヘムに世界各地から大挙して押し寄せ、大声をあげて壁をののしれば、壁は倒れると思った。
 12月24日のJPMAのメルマガの記事「イエス生誕2005年のベツレヘム」に、ベツレヘム市長のことばがある。「..ベツレヘムに入ろうとすれば、観光客の誰もが曲がりくねった通路に耐えなければならない。最初に屠殺場を想い起こさせる5つの電子式回転ゲートを通り..次に健康に重大な影響を及ぼしかねない2つのエックス線装置を通り、さらにイスラエル当局のパスポートチェックへと進む」と。市長の言うとおりだった。  
 Open Bethlehem というプロジェクトの本部がベツレヘム大学にあり、そのホームページでは『壁に書きたいメッセージ』を募集している。すでに書き込まれている欧米人のメッセージの中に、次のようなものがある。「牢獄の壁を打ち壊せ!」「壁はベツレヘムの人々の痛みであり、我々すべてが分かち合う痛みである」「この壁は全人類に対する犯罪だ」「イエスはこう言うであろう。主よ、お許しください。彼らは何をしているか知らないのです。」ベツレヘムが巨大な壁に囲まれ、沈んでいく。エルサレムは瀕死の病人。今にも完全にイスラエルに飲み込まれようとしている。いま、Stop the Wall! ではなく、Demolish the Wall! を言うべきときだ。 The Wall Must Fall!
 
あなたを待つ都

 クリスマスを前に街中が華やぐパリと東京。だが、ベツレヘムに注ぐ目は見つからない。
 東京に戻り、教会から届いていた「『クリスマス』のご案内」カードを開いた。「2005年のクリスマスを迎えましたが、私たちの世界にはいまなお戦争が続き、テロとその報復の殺戮の出来事が続いています。イエス・キリストは私たちに愛と平和を告げるためにユダヤの地ベツレヘムにお生まれになりました。いまこの時、イエス・キリストの誕生の意味を思い、世界の平和を祈りつつクリスマスを共に過ごしたいと願います。」ユダヤの地ベツレヘム? 目がそこでしばらく動かなくなった。これは枕詞なのか。 テロとその報復の殺戮? これも決まり文句なの。
 真実を知る。それが『平和を祈る』言葉を唱える前にするべきこと。そして、本当のことは弱い側の人たちの立場からしか見えないということを私は信じている。星の王子様も本当のことは目に見えないと言っている。
 皆さん、エルサレムとベツレヘムはあなたたちを待っています。さあ行きましょう。いま閑古鳥がなくベツレヘムに声を掛け合って、さあ出かけましょう。そこには皆さんを心から歓迎し、喜んでくれるクリスチャンとモスレムのパレスチナ人たちが待っています。あなた方がいらっしゃることが、一番大きな励ましになるのです。そして忘れずに、東エルサレムとやベツレヘムでお土産を買いましょう。ついでにおいしいファラーへルというサンドイッチ、クナーフェというケーキを味わってみてください。  シュクラン(感謝)。

以下続く

「略奪と喪失(2)」
長沢美沙子
マクシム・ギランの歩んだ道をたどる

以上