「追悼:ファトヒ・アブドルハミードさん。君はパレスチナをみたか?2」
「略奪と喪失(2)」
長沢美沙子
マクシム・ギランの歩んだ道をたどる
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前号で「略奪と喪失」と題して書いた旅行記には、私の旅の本来の目的を書くことはできなかった。今回はそれを書きたい。
昨年11月末に行なった2度目のパレスチナとイスラエル訪問の主たる目的は、2人の大切な親友の墓参りをすることと、夏に刊行されたばかりの日本人作家の書いた一冊の本を関わりの深い家族に届けることだった。ひとりは、昨年(2005年)4月にテルアビブで生涯を閉じたマクシム・ギラン。イスラエルを代表する詩人でジャーナリストのユダヤ人である。もうひとりは2000年1月にラマッラーで亡くなったパレスチナ人のジャーナリスト・外交官で、PLO初代駐日代表として大きな足跡を残したファトヒ・アブドルハミードさんである。親友という表現を私のような分際で使うのはあまりに僭越なのだが、それを許す飾らない心の広い人たちでもあった。マクシム・ギランは私に敬称を付けずマクシムと呼ぶようにと言ってくるので、おそるおそるDear Maximで手紙を始めたものであった。それからは、電話でも「ハロー、マクシム」となった。
突然の別れ
2005年3月、私の長い間の念願だったマクシムの来日がいよいよ実現できるところまで来ていた。すべて整っていた。1982年以来23年ぶりの再会となるはずだった。なのに、シンポジウムの3週間前、体調が悪化してとても行けない、と突然キャンセルしてきた。関係者はあわてた。そこで彼に代わりの人を推薦してもらった。平和運動の同志で、気鋭の地理学者でもあるオレン・イフタヘル氏(ベングリオン大学で政治地理学を教えている。映画「ルート181」の製作アドバイザー)が多忙なスケジュールを縫って来日してくれた。シンポジウムが終わり、帰国して数日経ったところで、悲しい知らせがあるという書き出しの短いメールがイフタヘル氏から届いた。そして「新聞にマクシムが死去したと報じられている」とある。ショックだった。呆然となった。彼方の空を見上げ、そして目を閉じた。そうやって数時間を過ごした。無理だとわかっていたが葬儀に出たいと願った。
亡くなる前々日、いつものカフェで「(ローマ)法王が長く苦しまなければよいのだが」と法王の苦しみを我が事以上に心配して友人に語っていたマクシムの方が法王より一日早く旅立ってしまったのだ。
愛すべき永遠の少年だった我らの芝生瑞和さんの突然の早すぎる死から1ヶ月。タイプが違っていたけれども、自分のこと以上に苦しんでいる人たちのこと、差別されている人たちのことをいつも考えていた2人だった。そして大きな行動を起こす人たちだった。思い起こすと、この2人は私のなかで特別大きな位置をともに占めていた。私には、これからもっと力になりたい、一緒に活動したいという願いがあった。しかし、その願いが打ち切られてしまった。
ギランの友人に会う
ヨセフ・グラノフスキーという名だけは知っていた。ヨセフ、つまりヨッシがマクシムの一番頼りにしていた友人だとわかったので、彼に会ってマクシム・ギランの晩年の様子を聞きたいと思った。墓参りもしたかった。
半年経って、迷いも不安もあったが、ひとりで旅することを決心した。何よりも心強くいられたのは、日本を発つ2日前に電話をかけてくれたヨッシの「空港に迎えにいくよ」との約束だった。
イスラエルのユダヤ人の出迎えならば安心だ。実際、空港で私は窮地に立たされ、それを救ったのは彼だった。余談だが、入国の特別審問をしていた検査官は、元将校だったヨッシのかつての直属部下のひとりだった。ヨッシは覚えていないが、検査官自身がすぐにわかったと親しげに話しかけたのだそうだ。ヘブライ語の会話などわかるはずもなく、予想外の展開も後で知ったことだった。朴訥として心優しい彼から、検査官たちにいじめられた直後の私の顔は「悲壮感と不安で溢れていた」と、後日冷やかされた。
ついでだから、ヨッシのことを少し書きたい。50代半ばの作家。ヤーファ(Jaffa)の片隅で語り継がれて来た逸話や歴史物語を掘り起こし、ヤーファ民話集としてヘブライ語とアラビア語で昨年出版したばかりだ。(この本については一部を翻訳して紹介する機会があればと思う。)ちょっと前まで、国境なんていうやっかいなものはなくて、人々は自由に往来し、活気があった。ダイナミックに生きてきた商人たちの話や庶民の人情話が愉快痛快なんだよと、下手な英語で訥々と披露してくれた。
そう言えば、初日に空港からエルサレムのホテルまで送ってくれたヨッシは、居心地が悪そうに、「エルサレムにはほとんど来たことがない。深刻な問題が多すぎて、気が滅入るんだ」と言って、一刻も早くエルサレムから離れたがっていた。
イスラエル人としての出発点
マクシム・ギランという詩人、平和運動家、ジャーナリスト、編集者のことを、その生い立ちからごく簡単に書こう。1931年フランスに生まれ、5才の時スペインのバルセロナに父の仕事の関係で移住する。父が財務大臣のとき、1939年にフランコ将軍の秘密警察に暗殺される。44年家族でパレスチナに移住。13才のときから政治運動(反英地下運動)に打ち込む。イスラエルの“建国”後、少しずつ疑問を持ち始めるが、決定的だったのは投獄中に目撃したパレスチナ人政治囚に対する虐待だった。54年前後からイスラエル市民(ユダヤ人とアラブ人の)の権利の平等を求め、アルジェリアの独立闘争などを支援し、ウリ・アブネリやイスラエルのアラブ人(つまりパレスチナ人)法律家サブリ・ジリスらとともに軍事政府反対運動を展開。ウリ・アブネリの「ハオラム・ハゼー」誌の編集に関わるが、意見の違いから離れる。1971年、パリでIsrael & Palestine誌(通称I&P誌)の刊行を始める。その月刊誌は財政困難に陥りながらも、彼の死の一年前まで続けられた。82年には国際ユダヤ人平和連合(IJPU)を創設。国連のNGOフォーラムなどにも深く関わる。1993年のオスロ合意まで、PLO指導者たちとの接触を禁じていたイスラエルの政策に反した行動をとっていたことから、20年以上の亡命を余儀なくされパリに居住。93年以降はテルアビブ、パリを往復しながら、アメリカにも講演旅行を繰り返す。一貫してPLOとイスラエルの平和勢力との接触・対話を図るなどしてきたが、93年以降は、イスラエル国内でのユダヤ人とアラブ人(キリスト教徒とイスラム教徒)の連帯を築く啓蒙活動に重点を移していた。2005年3月には日本学術振興会主催の「平和構築とグローバル・ガバナンス」公開シンポジウムのスピーカーとして招かれたが、直前に体調を崩し、来日を取りやめる。4月2日、この世を去る。
1983年の国際民衆法廷へのアドバイス
初めて私がマクシムに会ったのは、1982年のパリだった。レバノン侵攻があった年の12月。翌年3月末にイスラエルのレバノン侵攻を裁く国際民衆法廷(IPTIL)を東京で開催することが決まっていた。小田実氏と板垣雄三氏がイニシアティブをとっていた。その準備の一環として賛同者を募り、証言者をその法廷に招くことになっていた。その法廷の事務局長として地味な作業を担当していたのが芝生瑞和さんだった。私は別の個人的な理由もあったが、IPTILに協力する目的でパリ、ロンドン、アルジェ、チュニス(PLOが本部を移していた)、ローマ、モスクワへと旅の計画を立てた。そのときマクシムに会って直接にアドバイスとインフォメーションをもらってほしいと芝生さんから頼まれた。私もそう考えていたので、お墨付きをもらった格好だ。他にも直接連絡をとる人のリストを芝生さんからもらっていたが、必要十分の情報と連絡リストをくれたのは、マクシムだった。マクシムのアドバイスとリストは的確で、IPTILの成功の基礎を作るものとなった。その初期段階のことを知っているのは私と芝生さんだけだった。
当時、PLO駐日代表だったアブドルハミードさんにすすめられて“I&P”誌を時々読むようになっていた私は、主筆マクシムの書く政治分析の鋭さと奥深さに圧倒されていたが、彼に直接会い、現実の仕事ぶりを見て、さらに驚嘆させられた。当時50歳くらいだっただろう。一度に5人の話を聞いて、それぞれに答えられるという並外れた集中力を持っていた。言語の達人でもあった。英語で私と話していたかと思うと、西語でスタッフと、電話で仏語とほぼ同時に、違う言語が出てくる。そんな彼もアラビア語だけはいつまでも学習できなかったというのは、意外だった。
その”I&P”が極度な財政困難に陥り始めたのは、84年頃だったと思う。その緊急支援願いを読むたびに、“I&P”をなんとかして存続させたい、そのためにできることはないかと必死で考えた。そして自ら“I&Pフレンズ”を立ち上げ、サポートに乗り出したのだった。それから98年までマクシムたちの活動を細々と極東の片隅から支えてきた。(同時に私はウリ・アブネリが実質的な代表となっているグシュ・シャロームを同一母体とする刊行物The Other Israelの日本連絡所も当時引き受けていた。)ジュネーブやウィーンで開かれる国連のNGOフォーラムに参加しないかとマクシムから何度も誘いを受けたが、子育て真っ最中の私にはそれができなかった。そういうわけで、手紙では連絡が続いていたが、以後2度と対面するということはできなかった。
イスラエルで2004年4月に18年間の禁固刑を終えて釈放されたモルデハイ・バヌヌ氏(元イスラエル核施設の技師)は毎年ノーベル平和賞候補にあがってきた。1986年に英紙にイスラエルの核兵器開発についての情報を暴露して、イスラエルの諜報機関に誘拐された当時、日本ではほとんど注目されることはなかった。事件後まもなく、マクシムから手紙が来た。「彼の救出のために声を上げてくれないか。広島の平和団体に呼びかけてくれないか」という内容だった。私は途方に暮れた。チェルノブイリ事故があったその年、反核運動はまだまだ勢いがあったが、一向にそれがパレスチナへの関心に結びつかない日本の平和運動の現状を思って、悲観的だった。子育て中の制約も大きかった。マクシムは、バヌヌ釈放運動にも先頭に立っていたのだが、彼の私への要求は大きすぎた。無力な自分。無力な日本。胸のなかでうずき続けた。広島のアムネスティが中心になってバヌヌ救出運動が芽生えたのは今から約7年前のことである。これでマクシムも喜んでくれると思った。今回の旅で、バヌヌに会わないかと誘ってくれる友人がいたが、都合がつかず断念した。
亡命を終えてテルアビブに戻る
2004年9月、久しぶりにパリにいた彼に電話がつながった。「私の友が死にかけている」と辛そうに語るその声が老いて弱々しくなっている気がした。マクシムももう長くは生きていられないかもしれないと感じながら、「その友人というのは、どなたのことですか?」と聞くと、「アラファートだよ」という声が返ってきた。
高齢の彼が、その後パリから、アメリカ、そしてパリ、テルアビブ、パリ、アメリカ、パリ、テルアビブと4ヶ月間に2回も長い訪米を行っている。講演や連邦議会議員への「ロビー活動」にいそがしくしすぎ、その無理がたたったようだ。アラファートの死から半年後、マクシムも亡くなった。
今回、彼の墓へはヨッシに連れて行ってもらった。私は白い百合の花束を捧げ、紙コップにワインを注いで、地中に眠るマクシムをヨッシと一緒に偲んだ。彼の墓は、テルアビブから北に車で20分ほどのキブーツのなかにあり、芸術家の友人によるデザインで制作された垂直に立つ墓石には直径40センチほどの円がくりぬかれていた。そこから覗くと世界が広がって見える。西岸がすぐそこに見える。時代に先駆けたピースメーカーは、その当時イスラエルでは到底受け入れられない平和解決の理念を訴えた。パレスチナ人の人権と平等、そしてその国家を認めるべきだと唱えた。PLOをパレスチナ人の正統な代表として認めるべきだと唱えた。そのことで、同胞から孤立を強いられた。それでもなお訴え続け、その声が少しずつ聞き届けられるようになった。共鳴する人々の輪が広がった。時代は彼の唱えた方向に少しずつ動いていった。しかし逆戻りをした。だがまた彼が示した方向に動く日が来ることを私は信じている。
オスロ合意に彼は反対した。これはパレスチナ人の降伏でしかないと。再び流血、弾圧が繰り返されるだろうと。パレスチナ人に何が認められたというのかと。何が保証されたというのかと。エドワード・サイードも同じ理由でオスロ合意に反対していた。PLOの主だった幹部のなかにも、反対する人がいた。アブドルハミードさんも反対していた。だが、マクシムが20年余の長い亡命を解かれてテルアビブに戻れたのも、そしてハミードさんがチュニスからガザへ移り、そして西岸に入れたのも、そしてたまたまチャンスがあって北イスラエル地方にある彼の生まれ故郷サファドを再び見ることができたのも、オスロ合意の生んだささやかな成果であったろう。オスロ合意は不完全すぎるものだったが、希望が生まれたことも否定できないと思う。オスロ合意というものをもう一度検証することが、現在の混迷を分析するためにも、前へ進むためにも、いま必要ではないだろうか。
ヤーファ・カフェに集う人々
ヤーファに「ヤーファ・カフェ」というパレスチナ人とユダヤ人の集う書店を兼ねたレストランカフェがある。そこはマクシムが好んで通ったカフェのひとつだ。そこで、マクシムを追悼する若い詩人たちの朗読会があるから来ないかと誘われたので、旅の終わりにそこへ寄れるように私は旅行を組み立てた。
そして、ハイファからヤーファにたどり着き、若い詩人たちの清々しい朗読を聴くことができた。意味はわからないが、不思議に伝わってくるものがある。イスラエルの若い人たちの間で、マクシムの詩への人気が急上昇していると聞いたが、若い詩人を育てたいというマクシムの願いがこうやってかないつつあるのだと感じる。マクシム追悼のためにヨッシが音頭をとった詩の朗読会だった。マクシムの友人だったイラン・パペは都合がつかず現れなかったのが残念だったが、イスラエルの数少ないオアシスにいるような心地がした。
イスラエル首相賞
詩人マクシムは、亡くなる2ヶ月前に「イスラエル首相賞」を受賞していたという、一度もマクシムから聞いたことのない事実をヨッシから聞かされた。マスコミのインタビューが殺到したそうだ。しかし、彼はほとんどインタビューに応えなかったという。獲得した賞金で彼の自伝の出版費用や彼が始めたヘブライ語の隔月刊雑誌「ミタン」の資金に充てることもできただろう。だが、賞金はほとんど葬儀とお墓の費用に消えていってしまったそうだ。貧乏だった彼には、遺す家財はほとんどなかった。だが、彼の遺した文学の果実や彼が拓いた政治的・社会的地平の広がりがある。彼に影響を受けた詩人や研究者、若い平和運動家たちがいよいよこれから根を張っていくことだろう。
1982年の12月、初めてマクシムに会った後、同じパリで会った20代後半のドイツ人男性が言っていた。「マクシムはペシミストだ。悲観的な人だ。いつも、もうだめだ、全然よくならない、絶望的だ、と口癖のように言っている。ところが、決してあきらめないんだ。へこたれないんだ。すばらしい人だよ」と。この言葉をこの23年、私は何度思い返してきたことだろう。
ヨッシに聞いて私が一番驚いたことは、マクシムが亡くなる2年ほど前から、ほとんど視力を失っていたという事実であった。それで、ファックスの字が乱れて大きかったのだ。“I&P”誌にスペルミスがあったのもそのせいだ。それにしても死を早めた4ヶ月の間に2回の渡米という情熱と執念はなんと言うべきだろう。さらにそれから日本へも来ようという驚くべき気概。すべてそれは彼の優しさと使命感だったと私は思う。少しでも前へ進むために、現状を打開するために、そして資金を集めるために自ら動き回ってきた人だった。
ヨッシが話してくれた一つのエピソードがある。ある日2人でカフェにすわっていた。そこに若い物乞いがやってきた。マクシムはポケットからコインを出して渡した。ところが若い男はつかみ取れずに床に落としてしまった。マクシムはコインの音がするやいなや、さっとコインを拾ったのだった。そしてまた改めて若い男に渡すのだった。「どうしてそんなことまでするのですか」とヨッシは言った。するとマクシムは「決して、彼に拾わせてはいけない。私が拾って渡さなくてはいけないのですよ」と答えた。改めてヨッシは心うたれたのだった。分け隔てなく人の尊厳を大事にするマクシム。彼の人間としての品性を現わす一場面だ。
生前、彼はこれまで3度暗殺未遂に見舞われたと書いている。彼の親しくしたパレスチナ人、PLOの指導者たちの多くが暗殺されたように、彼も命の危険に絶えずさらされていたし、何度も無理をしすぎて、入院してきた身だった。いわば、パレスチナの人たちと同じ運命にあったと言えよう。
最後に、ファウジ・エル・アスマールの自伝To Be An Arab In Israelの日本語訳「リッダ:アラブ人としてイスラエルに生きる」
という本があることを紹介したい。そこには若きマクシムが何度もエル・アスマールの親友として登場している。
終わりに、マクシムの書いた数少ない英語の詩のなかから、最近の一作を選んで紹介したいと思う。
安息日の家路 詩:マクシム・ギラン
都会の若い女性兵士が 大通りを元気よく歩いていく
肩にかけた大きなリュックには汚れた洗濯物がぎっしり
思い出し笑いをしながら リュックをかけ直す
キュートで頭が空っぽの娘
なにやら独り言をつぶやく
それは恋人からの贈り物のことか?
彼が自慢げに差し出したプレゼントは
耳
戦闘で切り取ってきた人間の耳。
若い女性兵士が 幸せそうに歩いていく
汚れたシーツや下着が詰まった大きな袋を背負って
ママが待っているお家へ
洗濯機に向かって
金曜日の夕方 ノルドー大通り
恋人と遠く離れて。
(翻訳:長沢美沙子)
(原文ヘブライ語。マクシム自身が英語に訳し遺していた。)
さて、マクシムを追悼する旅は終わり、もうひとりの墓参りのために西岸ラマッラーに向かう。厳重に警護されているアラファート議長の大きな墓ではなく、日本人から慕われたファトヒ・アブドルハミードさんの小さなお墓に。そしてその家族には、「川崎隆司著作選集3(創作篇下):オリーブの樹は燃えた」(ミネルヴァ書房)という重い本を届けなければならない。「オリーブの樹は燃えた」の主人公のモデルは青年期までのハミードさん。初代PLO駐日代表を約7年間勤めた人。優れたジャーナリストでもあったハミードさんはその人生を2000年1月14日にラマッラーで閉じた。66才だった。ハミードさんの話は、次回にまわしたいと思う。
■マクシム・ギランの略歴■
1931年フランス生まれのユダヤ人。5才のときスペインのバルセロナへ移る。39年頃父親がファシストに暗殺。家族で44年にパレスチナに移住。その直後から右翼の反英地下運動に関わるが、「独立」後に、疑問を募らせていく。53年、「秘密文書」所持の嫌疑で逮捕され、14ヶ月の服務中にパレスチナ人政治囚の虐待を目撃。58年に「イニシアティブ」というグループを結成し、アラブ系とユダヤ系の差別をなくすためにイスラエル市民の平等を実現する運動を開始。ウリ・アブネリやサブリ・ジリスらとともにアルジェリアの解放とイスラエルのアラブ人地区を支配する軍事政府に抗議キャンペーンを展開する。再び投獄された後、ウリ・アブネリの「ハオラム・ハゼー」誌の編集を助けたが、個人的な確執があったのだろう。アブネリから離れ、ロンドンに移る。そこでHow Israel Lost Its Soul (Penguin,1969)を書き上げる。1971年に、ハンガリー系ユダヤ人のルイ・マルトンとともにIsrael and Palestine (通称“I&P”)という月刊情報誌を創刊。イスラエルとパレスチナの対話(dialogue)を追求したこの月刊誌は他のメディアにはない、占領下のパレスチナおよび中東全般をカバーする記事、情勢分析、インサイド・ストーリーによって専門家や平和運動家たちから高い評価を受ける。この月刊誌は、これまで公にはされてこなかったがナフーム・ゴールドマン(元世界シオニスト機構および世界ユダヤ人機構の総裁)が密かに後ろ盾として経済支援をしていたとされる。ゴールドマンの死後、“I&P”存続が困難となったが、縮小しながらもかろうじてマクシムの晩年まで刊行され続けた。
彼は国際舞台の裏側でイスラエルの平和勢力とPLOとの間の交渉を実現させ、それを発展させることに精力を傾けた。必然的に彼の友人には“危険人物”と目される大物も含まれていた。エジプトの共産党運動指導者のアンリ・クリエル(ユダヤ人)が暗殺され、それから2年以内にサイード・ハマーミー(初代PLO駐英代表)が暗殺されたが、マクシム・ギランがその2人と最も親しくしていた時期であった。
1982年、イスラエルのレバノン侵攻が激しさを増す中で、パリにおいて国際ユダヤ人平和連合(International Jewish Peace Union)を結成。これに後押しされて、マッティ・ペレドとイッサーム・サルターウィが共同記者会見を行なう一方、ピエール・マンデス・フランス元フランス大統領とナフーム・ゴールドマン、フィリップ・クルーツニックの著名なディアスポラ・ユダヤ人3人によるレバノン戦争批判声明が発表されたのだった。
それ以降も、マクシム・ギランは国連NGO会議やその他の会議に深く関与し、パレスチナの指導者たちとユダヤ人およびイスラエル人の平和団体との会合を数限りなく組織した。1987年、アルジェで開催された歴史的なパレスチナ民族会議にはパレスチナ人以外の人間として唯一招待されて出席している。1993年のオスロ合意には批判的な立場を示していたが、その合意後に長く強いられていた亡命を解かれ、イスラエルに入国を認められた。イスラエルの若者の啓蒙活動の必要性を感じ、精力的に内外で活動していた。体力が衰え、視力が悪化していたが、亡命中に途絶えていた詩の創作活動を再開していた。2005年2月、詩人として名誉ある「イスラエル首相賞」を授与される。2004年秋、旧友であるアラファートの葬儀に参列。その半年後の4月2日に自宅で倒れて死去。キブーツ・エイナットでの彼の葬儀にはクネセット議員のアズミ・ビシャラや作家のアモス・ケナンの姿もあった。
SHORT LEAVE / Maxim Ghilan
An urban girl-soldier strides along the boulevard
On her shoulder a huge rucksack full of dirty clothing
Smiling to herself, she shifts the straps
Cute idiot
She whispers to herself
Was it a love-memento?
He came, full of pride, brought her a gift:
The ear
of a man caught in battle.
A young girl-soldier strides happily
A huge bag full of dirty linen on her back
On her way to her mom's home
To the washing machine
Along Nordau boulevard on a Friday's eve
Far from him.
以下続く
「略奪と喪失(3)」
長沢美沙子
─ハミードさんと日本─