追悼:ファトヒ・アブドルハミードさん。君はパレスチナをみたか?3

「略奪と喪失(3)」
長沢美沙子
─ハミードさんと日本─

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 ファトヒ・アブドルハミード初代PLO駐日代表のことを皆、ハミードさんと親しみを込めて呼んでいた。昨年末、ハミードさんの墓にお参りするために「神の丘」という意味をもつ町、ラマッラーにミセス・ハミードを尋ねた。

ハミードさんの家族は今

 6年ぶりのラマッラーで、ファーティマさん(=ミセス・ハミード)に再会した日はちょうど彼女の役所務めの最後の日だった。つまり、定年退職である。三女のダナと二人暮らしで、あとの二人の娘ラナとヤラは独身のまま、それぞれギリシアとイギリスで働いている。ダナは、PALTELという日本で言えばNTTドコモのような電話会社で働きながら、ビルゼイト大学大学院でジャーナリズムの勉強に打ち込んでいた。   
 2002年にイスラエル軍によって西岸とガザが軍事侵攻され、アラファトが幽閉状態に置かれはじめたとき、外出禁止令のためダナの大学生活は中断を余儀なくされた。その後も順調に通学できたわけではない。アルジャジーラ放送局入社が決まり、カタールに出発する準備をしていたこともあった。だが、母を一人残しては行けないと、出発当日に決心を翻したとダナは語った。
 そういうダナが日本を家族とともに離れてチュニスに引っ越したのは5歳のときだった。お茶目なところや顔の作りなどは父親にそっくりで、達者な日本語をしゃべるボーイッシュな子だった。それが今では、見違えるように美しく知的なレディーだ。ところが、極度のストレスから内蔵を煩い、食事制限も多いという不自由な身体でもある。そういう意味で、ダナは占領下に暮らす人間の典型かもしれない。
 私が泊まっている間のこと。深夜に、やや遠方の向かいの丘の上にあるという刑務所にイスラエル軍が夜襲をかけたらしく、その騒音で眠れなかったと、昼近くに起きてきたダナは話した。私はぐっすり眠っていて知らなかったが、ダナのような人はいつもどこかで緊張しているに違いない。この事件は、その日の新聞に写真入りで報じられた。それを取材した記者をダナはよく知っていると言い。その勇敢な取材を讃えていた。写真には血だらけの男たちが写っていた。PFLPの幹部の一人が別の監獄に移送されるというので、それを阻止すべく他の囚人たちが一斉に大声をあげ、床や壁を叩いて騒音を出して抵抗していたのだという。それを“鎮圧”するためにイスラエルはガスや水や棍棒、実弾で襲った。これも日常の一コマなのだろうか。
 ダナはパレスチナ人のジャーナリストの友人が多い。同“種族”の人間としての強い親近感と絆を持っている。バグダードでアルジャジーラの記者がイラク戦争の当初、米軍に狙い撃ちされたが、彼もダナの友人の一人だった。イラクで命を落としたパレスチナ人のジャーナリスト仲間は彼だけではないとも言っていた。ダナは、ババ(アラビア語でパパのこと)の歩んだジャーナリストの道をいつしか同じように歩み出している。ババのように身を削るようにして。
 イスラエル兵に押し入られたアパートで銃口を向けられながら暮らした2002年春に比べれば、耐えられない生活ではないが、本当はすぐにでも西岸を出たい、外の空気を吸い込まないと身体が壊れそうだと言う。
 私のラマッラー滞在中、家族を大喜びさせることがあった。バルセロナに出張中の次女のヤラがアルジャジーラのニュースに出演したのだ。OXFAMという人道活動を展開する欧州最大のNGOで経済担当の地域部長としてインタビューされていた。へー、すごい貫禄!ファーティマさんは知人や親戚に携帯電話をかけまくっていた。
 

ラマッラーの殉教者墓地

 墓参りがしたいという私の願いを聞いても、なぜかファーティマさんは気が乗らないようだった。傾斜地にある墓地に実際に立ってその理由がわかった。殉教者墓地は荒れていた。墓地のある斜面から谷を隔ててすぐ向こうの丘の上には、イスラエルの入植地が整然と立ち並んでいる。2002年の“戦争”のとき、その入植地からの銃撃で墓地は危険地帯だった。そのまま墓石も手入れされずに放置されていたのだろう。私たちが訪れたときは、墓の再整備工事中だった。弾が着弾したままの墓石もあった。
 60×120センチくらいの大きさだろうか。ハミードさんの墓石が泥をかぶって横たわっている。墓石には、アラビア語で生没年とコーランの一節が刻まれていた。花束をファーティマさんが墓石に載せ、次にペットボトルに入れた水を墓石に注いだ。(なるほど、日本の仏教徒と同じことをするのだ。水は生命の源ということなのか。)そして黙祷。それにしても、その墓の姿は、ハミードさんの功績に比して寂しすぎる。
 
ハミードさんの人柄と日本での活躍

 坂井定雄氏(元共同通信記者、龍谷大学名誉教授)は次のようにハミードさんについて語っておられる。「彼の一生、人格は、優れたパレスチナの知識人、政治指導者の一人、戦士の一人として、いわば象徴といえるのではないでしょうか。あの穏やかな、しかし確固とした人柄は、まさにパレスチナ人です」と。作家の李恢成さんは「若いときから哲学者の風格が漂っている人」と表現しておられたのを私は記憶している。そして、第一に親しみやすさと懐の大きさを持つ人だった。
 彼をよく知る人も高齢になっておられるか、すでに他界された方が多い。1983年末に日本を離れてから23年が過ぎ去り、ファトヒ・アブドルハミードという名前を全く聞いたことがない人も多くなった。
   
 ハミードさんの日本人との交流の広さは特筆すべきものがあった。経済界、政界、文学界、大学や研究所関係者、解放運動や平和運動の方々、報道関係の方々、写真家、芸術家、音楽家たち。「オリーブの樹は燃えた」(川崎隆司著作選集3、ミネルヴァ書房)の付記にあるハミードさんの略歴紹介には、「当時、アラブ・イスラエル紛争に関心の薄かった日本で、精力的な活動を通じてパレスチナ問題の重要性を訴え、多数の日本人学者、知識人、市民の協力を得る」という一文がある。パレスチナ問題への無知無理解・偏見が満ちる日本で、理解してくれる友人を得るために、あらゆる扉を叩いておられたという印象がある。
 中でも重視なさったのは報道記者の方々との交流であり、市民、政治家、知識人への啓蒙活動であったと思う。その有力な手段としてハミードさんが見つけられたのは、情報月刊誌を自ら発行することであった。「フィラスティン・びらーでぃ(パレスチナわが祖国)」という月刊誌は、たしか1980年初頭に創刊され、1983年12月にハミードさんが日本を去るときに休刊(→廃刊)になった。4年間だけだったが、その意味は大きかったと思う。前田慶穂氏(元金沢大学教授。パレスチナ問題の歴史学研究のパイオニアの一人。現在85歳)は、「ハミードさんの日本での業績の最大のものは『フィラスティン・びらーでぃ』という月刊誌です」ときっぱり。「単なるお国自慢とか大使館の広報と違って、パレスチナ問題を客観的に扱っていて、しかも私も含めて様々な人がそこに参加するという、開かれた参加型の編集がされていましたね。ハミードさんは名編集長でした」と述懐される。
 
アブドルハミード氏と刊行された「びらーでぃ」

 もともとジャーナリトから出発して‘外交官’となったハミードさんが、遺憾なくその能力を発揮したのは国際政治動向と社会の分析・解説であり、編集の仕事だった。1960年代、シリアの新聞「アッサウラ(革命の意)」の編集長の地位を捨ててファタハに入党すると、ニューデリー、ついで東京でPLO事務所の創設をまかされた。まず市民に訴え、世論を動かすことを心がけられた姿勢にはジャーナリストの感覚が生かされていたのだと思う。
 
 駐日代表時代の最大の歴史的出来事は、1981年11月のアラファト議長初来日であろう。日本政府は正式にPLOをパレスチナ人民の唯一の代表と認めたわけでも、PLO駐日代表事務所(代表部)に外交特権を与えて大使館並みの昇格を約束したわけでもないが、とにかく日本独自の中東外交を行うというなみなみならぬ意思が働いていたのは確かだった。
 もうひとつの在日中のハイライトは、1982年のイスラエルのレバノン侵攻を民衆の立場で裁こうと小田実氏と板垣雄三氏、芝生瑞和氏らを中心とした日本の知識人と市民が行動を起こして実現した83年3月末の「イスラエルのレバノン侵略に関する国際民衆法廷」(IPTIL)であろう。法廷で証言する人を含めて来日した外国人はざっと30人ほどになるだろうか。ボランティアの日本人はその数倍ぐらいになると思う。趣旨に賛同した世界の知識人は、ラムゼイ・クラークやチョムスキーを含め数十人。翌年、この国際民衆法廷の記録は英文と和文で三友社出版から出版されたが、すべてボランティアの力であった。PLOはそれを主催したわけでもスポンサーになったわけでもないが、ハミードさんの日頃の活動の蓄積が背後にある。
 1984年12月の離日の挨拶パーティには、各界から300人もの友人が駆けつけてくれた。初めて寂しく来日した8年前のことを思い浮かべてであろう、感無量になったハミードさんの横顔が思い出される。

チュニス時代(1984年1月?1996年4月)
 
 1983年末にチュニスのPLO本部に異動になってからのハミードさんのことは日本ではほとんど知られてこなかった。ファーティマさんは私への手紙の中で、チュニスに到着してからポストに就けぬまま苦しい時期があったと述べている。プライドも高かったハミードさんは「パレスチナの指導部について理想化しすぎ、幻滅させられたのかもしれません。外交畑を長く歩いて来たため、PLOの内部の事情と派閥のようなものにすっかり疎くなっていたのかもしれません」という。
 やがて、保安関係の業務を担当していたアブ・イヤードと従兄弟のハエル・アブデルハミード(アブル・フル)に誘われ、情報部長として、日刊の国際情勢分析リポートの編集をはじめることになった。再びジャーナリストとしての本領を発揮。簡潔で洗練された独特の形式のリポートはたちまち注目され、多くのパレスチナ人の心をつかんだ。ファーティマさんはそれを喜びつつも、「再び仕事漬け人間になっていった」ことが心配の種だったという。
 アブ・イヤードとアブル・フルが暗殺されたのは91年1月14日。ちなみに、米軍とその連合軍のイラク攻撃(湾岸戦争)はその3日後に始まった。   
 ハミードさんは打ちのめされ、悲しみのどん底でもがき苦しんだそうだ。この世で一番の盟友を失って、何をする気も起きなくなった。それに追い討ちをかけるように父と母、そして姉妹もこの世を去り、ますます殻に閉じこもってしまった。
 その落ち込んでいた時期に、彼を日本に招いてくれないかと、ハミードさんに近いパレスチナ人から頼まれた私は、ハミードさんに日本の空気を吸わせてあげたくて、片端から彼の友人に声をかけ、寄付金を集め、招待の準備をしたのだった。92年5月末、8年半ぶりに再び日本の地を踏んだハミードさんは懐かしい友人たちと旧交を温めることができた。宇都宮徳馬氏や後藤田政晴氏、土井たか子氏らから歓迎された。「関西パレスチナ人民と連帯する会」による熱烈な歓迎や、小田実氏や板垣雄三氏、牟 田口義郎氏、奴田原陸明氏、広河隆一氏、ここに書ききれない多くの友人との再会はどんなにハミードさんを励ましたことか。
 チュニスに戻ったハミードさんは早速、駐日代表時代の日本の思い出、日本社会の分析を意欲的に書き始め、国際政治評論集もまとめ始められたそうだ。残念ながらその原稿はその後、紛失したらしいのだが。

オスロ合意の後で そして今

 オスロ合意(1993)をハミードさんはどう考えたか。悩んでおられただろうとは想像がついた。96年5月にとうとう自治区パレスチナに入られるまで、オスロ合意を支持すべきか、反対すべきか、3年の間、呻吟なさったようだ。悩んだあげく、自治区に入ったハミードさんには観光・遺跡省の情報部部長のポストが与えられた。だがその矢先、仕事ができる健康な身体を失ってしまったという。清廉潔癖なハミードさんにとって我慢できないほどパレスチナ自治政府もファタハも汚れた状態だったのではないかと推測する。「現実と夢のはざまで苦しむことになりました。(中略)じわりじわりと彼の精神状態が不安定となり、さまよい始めました」とファーティマさんは書く。
 そうしてすでに悪化していた健康がさらに悪化。98年秋には結腸がんの大手術。その後しばらく安定。私と家族がハミードさん一家を訪問したのはその頃だ。が、99年末に肺炎で再び入院し、昏睡状態のまま、アブ・イヤードとアブル・フルが9年前に暗殺されたと同じ1月14日に亡くなる。15日にラマッラーの殉教者墓地に葬られ、多くの人が葬儀に参列してくれ、ファタハ党本部はその後3日間を服喪期間としたことなどファーティマさんは知らせてくれた。

 ハミードさんが亡くなって8ヵ月後、アルアクサ・インティファーダが始まった。もうすぐ没後7年。だがいっこうにパレスチナの人たちに光は射し込まない。むしろイスラエルや欧米からのパレスチナ人“いじめ”はますますひどくなっている。
 ハミードさんが83年末に離日したときの心残りは、この東京に〈パレスチナ情報センター〉を設立できなかったことだった。そのセンターはまだ生まれていないけれども、数多くのパレスチナ支援団体が日本中に生まれた。JPMAも含めて。でも、まだまだ力が足りない。
 パレスチナ問題の深淵と向き合って私も長い。しかし、パレスチナ問題の本質が理解されにくい社会状況はほとんど変わっていない気がする。なぜなのだろう。そう問い続ける一方で、とにかく今、一日も早くあの忌まわしい隔離壁を撤去させ、ガザの封鎖と軍事攻撃、虐殺をやめさせるために抗議の声を大きくしなくてはならない。そのために皆で知恵と力と、そして勇気を出し合わなければならない。パレスチナの人たちは世界の人たちから、やさしい心の届くのを待っているのだから。     ■(了)

*付記*「フィラスティン・びらーでぃ」誌は、国立国会図書館や西早稲田にある日本キリスト教団社会委員会の資料室に全号が収められています。

 

初出:

「略奪と喪失」は『アルサッハ』(日本パレスチナ医療協会発行ニュースレター)No.51,2006年1月
「略奪と喪失(2)ーマクシム・ギランの歩んだ道をたどるー」は『アルサッハ』No.52, 2006 年6月
「略奪と喪失(3)ーハミードさんと日本ー」は『アルサッハ』No. 53, 2006年12月

今回のブログ掲載の文章は、オリジナルに少し訂正を加えたものです。

日本パレスチナ医療協会(JPMA)のホームページ
  http://www1.ttcn.ne.jp/~jpma/

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以上