辞任声明後に慶応病院に入院した安倍総理だが、安倍首相の主治医である日比紀文・消化器内科診療部長は「1ヶ月前から胃腸障害の症状が出始め、数週間前にウィルスのよる一過性の急性胃腸炎にかかり、胃腸障害の症状が悪化している」と説明。
また、安倍首相は自民党の両院議員総会への出席を希望したが、医学的に無理と医師団が判断して、出席を止めた。とのこと。
入院加療が必要とされているが、実は相当に「悪い」という情報と、「病名」が密かに噂として流れている。
・・・・注意:このあとの3行、ボスの命により削除・・・・・。
自らの体調不良を麻生幹事長などにはなしていた安部総理。
国会での「辞任表明」が、実質的に首相としての最後の会見となりそうだ。
しかし、「辞任声明」では、自らの「健康問題」について一言もふれていない。
これが安部総理の精一杯のプライドだったのだろうか?
安部総理の病状に関して、やはりというか、以下のようなケースも想定されていたという。
「国会会期中に救急車で運ばれて緊急入院。首相臨時代理として与謝野官房長官が就任する」
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国会会期中の首相の緊急入院といえば、2000年4月の小渕首相のケースがある。
2000年4月2日に、脳梗塞を発症。この脳梗塞の兆候は前日から見られたとも言われる。実はこの日連立与党を組んでいた自由党との連立が決裂し、その事に関する記者の質問に対して答弁できず無言になり、言葉を回答するのに10秒前後の時間を費やした。これは一過性の軽い脳梗塞の発症と言われた。
順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院。執務不能となり、内閣官房長官の青木幹雄を首相臨時代理に指名したとされる。青木の首相臨時代理就任に際し、脳梗塞で意識を失いつつあった小渕本人に、指名を行うことが出来たか否かが、野党・マスメディアに追及された。
家族は昏睡状態の小渕に好きな音楽を聴かせたが、意識を取り戻すことはなかった。約1か月半を経た同年5月14日午後4時7分に、病室で家族に見守られながら死去。62歳だった。なお奇しくも父と同じ病気で倒れ、同じ病院で亡くなっている。現職総理の死去は1980年の大平正芳以来。
その後、5人組によって、後継に森喜朗が選出され、小渕内閣の閣僚は、小渕を除いて森内閣に引き継がれた。
この過去の例があるせいか、安部総理の辞任声明について、
「むしろ、緊急入院であれば、まだ国民が納得する」という声が、永田町周辺で聞かれる。
この小渕内閣誕生でも参議院では与野党が逆転しており、参議院では民主党の菅直人が首班指名されている。衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名された。
小渕首相の病気による緊急入院。その後の辞任。
安倍首相の辞任声明後の緊急入院。
この自民党の二人の首相の辞任に密接にかかわってしまったのが、小沢一郎氏だ。
小渕政権では、自由党党首であった小沢一郎はさんざん振り回し、土壇場で自民党との連立政権を蹴っている。
安倍政権では、民主党党首であった小沢一郎が、強行にテロ特措法の延長を拒否する姿勢をしめし、安部総理からの党首会談を拒否している。時の首相からの会談を拒否した例はまれだろう。これが小沢の真骨頂との声も。
「小沢は自民党の3人の首相を殺したも同然。一人目は、宮沢喜一。二人目は小渕恵三、そして三人目は安倍晋三」という自民党長老さえいる。
殺したという表現は、ひとつの比喩としてうけとるとして、いずれのケースでも時の政権にとって致命傷となるであろうところに、切り込んでいったのが小沢一郎だった。
小渕首相の死去後、衆院での総理大臣経験者への弔辞がおこなわれた。この弔辞は、、野党第一党党首が行うのが通例だ。当時の野党第一党の党首は鳩山由紀夫。しかし、遺族側がこれを拒否し、例外的に総理大臣経験者で野党社会民主党の村山富一による弔辞となった。鳩山は当時、小渕のドコモ株疑惑を執拗に追求していたことが、この異例なケースの背景にあるといわれている。
このケースで考えれば、仮に、安倍首相が死去したとしても、安倍の遺族は、野党第一党党首である小沢一郎の弔辞を拒否することになるのだろうか?
3人の首相を、辞任に追いやった小沢一郎は、その豪腕だけでなく、怨念めいた生臭い伝説をもう一ページ追加したことになるかもしれない。
文責:ABC
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