【昭和のマルチ人間・中山忠直の生涯】第1回
詩人・文筆業・漢方復興の功労者・民族主義者・芸術評論家
大宅荘一は「筆のちんどん屋」と名誉ある称号
by 油井富雄
●昭和2年・ベストセラーになった『漢方医学の新研究』
昭和2年元旦、大正天皇が1週間前の12月25日に崩御し喪に服していた。家々にはすでに大正16年と表記されたカレンダーが配られていた。この昭和の始まりの年の2月、今回の主人公・中山忠直の『漢方医学の新研究』が書店に並んだ。
この本がなければ、現在の漢方医学の姿は変わっていたはずである。おいおいその理由は述べるとして、中山忠直という一人の男が歴史に名を留めることになる。本名はタダナオだが、ほぼ知る人はチュウチョクと呼ぶ。
『漢方医学の新研究』は東京・日本橋にあった寶文館から発行された。その後改訂15版を重ね、昭和初期のベストセラーに数えられる。
なぜ、この書が脚光を浴びたかは後述するとして、中山忠直、この男の人生はなかなか面白い。
●国家社会主義者を足を洗い、大正末年には総合雑誌等に寄稿
生まれは石川県金沢市、明治28年に小学校の教員をしていた父の長男として生まれた。金沢の旧制中学を卒業すると上京、早稲田大学の商科(現商学部)に入学した。
卒業すると、服部時計店に勤務するも1年ほどで退職、いやほとんどクビというか、本人にいわせれば、「サラリーマンが向かないから辞めた」ということだ。以後、『中外』(大正時代の硬派の総合雑誌)に2年ほど勤め、その後はクロポトキンの著書の翻訳、国家社会主義者と自称する。翻訳といっても、本人は外国語はまるで駄目だったという。ただ国会図書館には彼の翻訳本が現にあるから不思議だ。その後、国家社会主義から足を洗い、詩人となる。
中山啓というペンネームで大正12年には新潮社から詩集を出版する。当時の創刊間もない『文藝春秋』に詩論を展開している。これも本人にいわせれば、当時の大正ロマンの「軟弱な詩が世の中に流行し、時勢に合致しなかった」ということらしい。しかし、じっくりと彼の詩を味わうと、これも後述するが、現代に通じるいい詩だ。
大正の末年には、これまた硬派の総合雑誌『日本及日本人』、東京では当時三大紙の『報知新聞』(当時は一般紙で文芸欄が充実していた)の常連執筆者となる。いわゆるジャーナリストである。
●日本・ユダヤ同祖論を展開、天皇家のタブーにも
昭和になると、冒頭の『漢方医学の新研究』、『漢方医学余談』、『日本に適する衣食住』と立て続けに単行本を出版する。
このまま、文筆業を続けていれば、印税生活を送ることもできたほど売れ続けたが、それに満足しないのが、中山忠直の魅力でもある。ただ、机上でペンを走らすだけの文筆家は、民族主義者として自らも行動する。
ただそのことは、貢献した漢方界からも意識的に無視される原因でもある。
時には芸術評論も書き、日本画家の豪華画集まで自費出版までは、現在も文化事業として評価されるが、『わが日本学』という日本主義者の書は当時の軍部から発禁処分になるほどだった。
現在は、一部の歴史マニアにしか受け入れられないが、日本人とユダヤ人同祖論を展開、天皇家の歴史のタブーに触れたのだ。
●軍部に太いパイプ、シンガポール司政官に
とはいえ、当時の軍部にも太いパイプを持ち、太平洋戦争に突入した直後、日本がシンガポールを占領した際には、文民の司政官として任命された。
このころ中山忠直は、静岡県沼津の歌人・若山牧水の旧居を買い取り住まいとしていたが、この自宅で昭和17年4月、シンガポールに旅立つ前に脳出血で倒れてしまった。
●頭山満、石原莞爾、安岡正篤らとの交流?
命は取り留めたが、左半身不随となって、自力歩行が困難となった。以後昭和32年に亡くなる15年間、事実上寝たきりの生活を送っている。
ただ思考能力と右手は動き、この15年間も寝床で書き続けた。
この膨大な未発表原稿も大量に発見した。頭山満、石原莞爾、安岡正篤などの名前も散見する。
詩人・漢方復興の立役者、ジャーナリスト、日本主義者、芸術評論家……さまざまな肩書がある昭和のマルチ人間・中山忠直。あの評論家・大宅荘一は「筆のちんどん屋」という名誉ある称号を与えた。
さあ、中山忠直の生涯を紐解いてみよう。(次号に続く)
【3年前に『漢方医薬新聞』紙上に50回にわたって漢方医学への功績を中心に連載したが、その後発見した資料をもとに、中山忠直の全人生を振り返る】
参考:漢方医学の新研究―西洋医学と東洋医学の実証的比較 (1974年)
日本人に適する衣食住 (1927年)
アジアのめざめ―印度志士ビハリ・ボースと日本 (伝記叢書 (189))
続き:中山忠直の生涯2 2008年07月16日