【昭和のマルチ人間・中山忠直の生涯】第2回
詩人・文筆業・漢方復興の功労者・民族主義者・芸術評論家
大宅荘一は「筆のちんどん屋」と名誉ある称号
by 油井富雄
●15版を重ねた『漢方医学の新研究』
詩人・漢方医学研究家、国家主義者、日本人・ユダヤ人同祖論者、芸術評論家、皇居移転論者……さまざまな肩書きを持っている中山忠直は、それぞれの関連の著作・新聞雑誌の記事、出版されずに終わった生原稿に目を通した。
そのうち、最大の功績は、漢方医学復興に貢献したことだろう。この話から入ってみよう。
『漢方医学の新研究』は、昭和2年2月、東京・日本橋にあった寶文館から発行された。その後改訂15版を重ね、昭和初期のベストセラーに数えられる。
●絶滅の危機に瀕していた漢方医学
なぜ、この書が脚光を浴びたかを説明しよう。
大正の末年には、漢方医学は絶滅の危機に瀕していた。明冶7年、明冶政府は医療制度を法律化した医制を発布し、翌明冶8年から医師資格試験を実施した。この試験科目は、西洋医学のみに限った。この明治8年から漢方受難の時代の始まりである。
これまで漢方医に弟子入りして修業して医師になるのが一般的なものだった。試験を受けたにしても合格などできるはずもなかった。ただ、これまで医業の看板を掲げていた医師は、従来どうり医業を続けることができた。
明冶16年には、漢方医の子弟でこの時点で25歳に達したものを医師として認める制度を打ち出した。そして明冶17年には以後は医師は西洋医学の規定の試験に合格しなければ、一切名乗ることは出来なくなった。
帝国議会ができると、国会請願運動も行われたが、明治24年の第2回帝国議会に漢方医復活の医師規則改正案が、政党各派から出されたが、直前になって議会は解散。その後昭和28年、第8回議会で漢方存続案は、採決となったが27票差で否決されて、漢方医の復活運動は失敗に終わった。
漢方自体が禁止されたわけではない。正確に記すと、漢方医学のみを学んで、医師を名乗ることはできない。西洋医学の医師国家試験を取得して、その上で漢方医学を学び、診療に生かすことを禁じるものではない。ここで使う漢方医とは、漢方のみを学んだ者を指し、西洋医学の医師資格試験をパスしていない、従来資格で明治16年の規定で医師として認められたものを指す。
ただ漢方医学自体を明治政府は医学として否定されたに等しい念頭に入れなければならない。
いくら漢方の知識と診断の技術があろうと、この規定に則していない者は、“自称医師”ということになる。
大正期に入ると漢方医たちは物故したり高齢化して、時の流れと共に絶滅の危機に瀕していた。中には医師資格はないにしても漢方診療を続けている人たちもいた。
『漢方医学の新研究』が世に出たのは、そういった時代だった。
漢方医学の復興を願う人たちにとっては待望の書だった。そして医師や医学生にとっても大きな影響を与えたのだった。
●初版は、箱入り上装本。版によって大幅に違う内容
〈漢方医学は世界無比の高等臨床医学である。日本はこの高等医学を捨て、下等な西洋医学に心酔した結果、国土は病弱者で充満し、国家の危機となった。これを救うには漢方を復活する以外にない〉
〈漢方の偉大なる点は、診断学上の卓越と、これを駆使する方剤運用の妙である〉(引用文はすべて現代用語で表記し筆者要略)
以上は、当時の『漢方医学の新研究』(初版)の箱入り本の宣伝コピーである。
『漢方医学の新研究』を開いてみよう。
『漢方医学の新研究』(寶文館)は、初版が箱入り上装本昭和2年2月20日付け発行、2円80銭、この値段は、中山が調合していた中山胃腸薬などのほぼ1ヵ月分に相当、現在の感覚でいえば7、8千円の高級本。
ほかに値段も安い普及版も版を重ねている。手元には昭和6年に『漢方医学の新研究』の改訂版が作られ内容をほぼ3分の1を書き換えた同名の書がある。
箱入り豪華本もあれば、普及版もある。何部発売されたか不明だが、現在も根気よく探せば古本市場で現物を入手することは可能だろう。かなりの部数が出回ったことと、当時の購入者が大事に持っていたことを意味する。
ただ、版ごとで内容を一部入れ替えてあったり、初版の読者の反響なども掲載されたり、巻末に漢方薬の広告なども添付してあったりと、『漢方医学の新研究』の名でも、読み方によっては別の書物ということもできる。
それは、後述する他の中山の著作本にもいえる。
●医界の改革を目指した“立正安国論”。医道乱るれば国も乱れる
今回、昭和2年の初版本と大幅改訂がなされた昭和6年発行の改訂普及版を参考にした。
まず、序文が目を引く。
〈あえて謙遜の辞を棄てて之をいえば、本書は現代臨床医学の根本的改革のために執筆せしもの、まさに医界の立正安国論である〉
初版は全447ページ、総説、漢方の診断と治療、漢方調剤の理論、鍼灸術などの章と付録論文・科学上の才能は日本が世界一からなっている。
改訂版になると、附録論文の代わりに漢方薬での治療症例にページを割いているが、序文や総説は同じ内容だ。
〈漢方医学は世界に比肩するものなき最高の臨床医学にも関わらず、西洋心酔の時代力に葬られて、ドイツ流の外道医学の全盛となり、国土は病弱者をもって充満し、国民保健の一大危機を招来した。――救いなき医学に光明を失える者、病弱なるがために社会の下層に沈して世を呪う者、しかり、病的思想の旺流、国民道義の頽廃、これらは、漢方衰退、外道医学の全盛に起因する。医道乱るれば、国も乱ると〉
続けて中山はいう。
〈この時に際し、国家社会の病的腐敗を救わんとするならば、漢方医学を復活して医界を廊正し、医道をして正道に復らしめ、もって国家の細胞たる国民の疾患を治し、よって一大生体たる国家社会を救うほかはない〉
演説調の文体は、衰退しかかった漢方医や西洋医学に疑問をもった人たちを勇気付けた。中山は詩人でもあり、後年は国家社会を論ずる民族思想家でもあった。こういう文章は得意だった、少なくとも中山の文体の特徴でもある。
●冷静に歴史を見つめて漢方復興を叫ぶ
次に、『漢方医学の新研究』を何のために書いたかを述べている。
〈しかるに漢方医学は、全国に充満する愚夫、愚婦、愚医によって、いまなお未開医学の悪名を蒙って振るわない。ここにおいてか漢方医学の本体を解明し、世の蒙りを啓くことが愁眉の急であらねばならぬ。本書はすなわち、この目的のために執筆せしもの、したがって臨床応用の参考書ではなく、それは別に後日の努力をまたねばならぬ〉
あくまで、医師ではない中山は、俄仕立てで漢方書を読み解いてはいたが、患者を診察するつもりは、当初はなかった。しかし、これは後に予期せぬ計算違いを生み、福も禍も同時にやってくることになる。
本文に目を移すと、感情的に漢方医学の復興を叫んでいる書ではない。却って冷静に医学を見つめ、どうすればいいのか? を分析することを怠らない。
〈本来からいえば、医学には元来、洋風だとか漢方だとかいう差別があってはならぬ。二者は渾然融合して、一つの新医学を形成せねばならぬわけだが、洋医には洋医の偏見があり、漢方医には漢方医の偏見があって、お互いに己を高とする結果、当然に採用せぬばならぬ他の良点も見えなくなり、医学の進歩が阻害されている。悲しいことである〉
現在でも通用する言葉である。決して無条件に漢方を賛美しているわけではない。江戸末期から明治初期に活躍した浅田宗伯に書物で師事しているが、浅田派賛美もない。自ら漢方医として生活する意図などない。医事評論家やジャーナリストとでもいおうか、あくまで第三者の目で漢方医学の復興を叫んだ言葉になっている。
医師や科学者では専門用語を使う。しかしそれは、場合によっては進歩と共に更新され、時代とともに風化してしまうことが少なくない。この書が専門用語抜きに埋め尽くされているのも名著として残った理由だろう。
当時、皇漢医学とも呼ばれていた漢方医学は、民間療法と同類に扱われ、野蛮医学と呼ぶものもいた。
〈漢方医学は、果たして本当に野蛮なものであったろうか。また洋方医学は、果たして漢方を野蛮扱いするほど、半神的な文明的な医学であろうか―中略―科学中の最も科学的であるべき医学界において、漢方に対する批判は、果たして『科学的非判』であったろうか〉
科学的という名の錦の御旗を基に、明冶以後、漢方医学は西洋医学側から批判されてきた。ただ現状の科学で解明できないものなど、特に人体生理においてはとりわけ多い。
つまり、非科学というより未だ科学で解明できない未科学であることを認識することを中山は言っているのだ。
●科学の名のもとに行われる分析医学の欺瞞を指摘
また、こうもいう。
〈西洋医学は、科学という名のもとに、分解だとか分析だとかいう方向のみ発達し、いつしか医学の枠を乗り越えて、動物学の圏内に陥没してしまい、人間の病気を治療する医道の権威は地に堕ちてしまった。医学が医学でなくなった主たる原因は、科学の本質をば、分析や分解にあると錯覚した誤謬によるものだろう。そもそも分析や分解は、真理を発見するための手段にすぎない。この分析や分解で果たして真理をつかめるだろうか。いわんや手段方法を重んずるあまり、分析や分解がいよいよ細部に及んでは、なおのことである。〉
現代においてもよくある話ではある。さらに繰り返し論理を解説する。
〈およそ物事は、分解分析によって真理を認識できるものとできないものがある。物理や化学のように、非生命体を扱うのは前者であり、医学栄養学の如く生命体を扱うのものは後者に属するのである。人体は有機体であって、車やシリンダーやピストンやボイラーから成り立っている機関車のようなものではない。よって分析や分解によって、その外面的な構造はわかっても、生命体の本体は会得されないのである〉
当時中山は、西洋医学批判のためにこの文章を書いたが、現代はむしろ漢方医学の研究者も陥りやすい問題でもある。
そして、本のタイトルに全てを表しているが、あくまで『漢方医学の新研究』であって、漢方のみが医学の全てといっているわけではない。
〈私は、漢方医学が全面的に洋方医学よりも優れているというのではない。すべて漢方でなければならないと考えるのは、もとより時代錯誤の甚だしきもので、論ずるまでもなく誤りである〉
と、漢方が第一と考えるのは、西洋医学が第一と考えると同様の愚行であると言い切る。
そして、
〈私は、漢方の崇拝者でも、洋方の賛美者でもない。お互いの優れている面を医療に生かす、至極平凡なる真理を遂行せんとする者である〉
と自らを語る。
●漢方医学と西洋医学を統合いた医学を提唱
次の一説も興味深い。
〈漢方と洋方を総合して、これによって混成医学を組織せんか、これによって医学史上に、画期的な新医学となるであろう〉
現代用語でいえば、東西医学の融合とでも表現できる。現在の漢方界には洋漢統合医学という人もいる。また異なった哲学概念を認め歩み寄る東西医学の和諧という人もいる。
いや、中山が現代に蘇れば、最先端医学はもちろんのこと、医学といった範疇にも属さない伝統医療、代替・補完療法を駆使した“統合医療”を叫ぶのかもしれない。
●西洋医学の優れた面も記述
『漢方医学の新研究』では、漢方医学と西洋医学比べて単純に優劣を論じてはいない。当時の西洋医学の優れている点も分析、かつ“野蛮医学”として社会の片隅に追いやられていた漢方医学の優れている点を高らかに述べている。
西洋医学の優れている点は、かなりの紙幅を割いて解説している。日本における北里柴三郎のペスト菌、志賀潔ら赤痢菌の発見の業績、野口英雄の海外での活躍にはエールを送り、外科部門における貢献はおおいなる賛美を送る。
同時に漢方医学がなぜ衰退したのか、なぜ明治政府が洋方医学を採用したのかを冷静に分析している。
その一番目に、日本においても解剖学が発展したことをあげている。
漢方の五臓六腑と解剖学上の内臓の分布には違いがある。山脇東洋らの日本初の解剖学書『蔵志』、さらには杉田玄白・前野良沢の『解体新書』と日本においても人体解剖生理学が発達する気運にあり、当時の洋方医学は、それだけで、漢方医学より説得力を持っていた。
しかも解剖生理学の発達と共に外科技術の発達は、当時に日本には欠かせなかった。
戊辰戦争、西南戦争と続く中、刀傷には消毒(破傷風が克服されたのはかなり後だが)、銃創には銃弾摘出手術といったものがあり、そのことだけでも漢方医学より数倍優れた医学に見えた。
●漢方医学の弱点も指摘
第2に漢方医学の弱点として、草根木皮の薬を煎じることに頼ることをあげている。
〈とろとろと煎じるもどかしさに比べると洋薬の雪の如き粉末、透明なる薬液、飲みやすく簡便なる僅少の分量、実に文明的である〉
と中山はいう。
これも西洋医学の盲目的感情を助長したと。簡便なる漢方薬は、のちに中山が開発した一般売薬リストの中で、煎じ薬のほかに丸薬が幾つかあるほどだ。 戦後、煎じる手間を省き、持ち歩きもでき、飲みやすいエキス剤の普及で、この問題は解決がついた。
●医療制度を整備した明治政府の意図
3番目に中山があげる漢方衰退の原因の最大のものとしてあげるのが、江戸時代末期の医師制度の不完全さをあげている。
〈医師は八百屋や魚屋と同じ自由業、医術の心得があれば、誰でも医師になれた。されば、その中にはろくに診断ができぬものが混じっていた〉
と漢方医には悪医が混じる素地があったことを認めている。
明冶維新が、旧幕藩体制の制度を一掃することで成り立つのであれば、江戸時代の各藩のお抱え医師、野放しの医師制度は生き残る術はなかった。
〈医師たらんとするものは、いやでも西洋医学を学ばなければならず、漢方的訓練ができなくなった。洋方医と漢方医が自由競争の結果、自然淘汰によって滅亡したなら致し方ないところであるが……〉
と、矛先が明治政府の方針に向かう。
西洋医学への中山の見解を幾つか抜粋してみよう。
〈西洋医学の輸入は、よい所もあれば悪いところもある。内科の輸入は失敗である〉
〈洋方の診断は、要するに病名の発見にすぎない。なんとなれば洋方の疫病の原因をば、主として外的要因に置き、内なる素因を軽視するがゆえにいかなる病原菌によって局所が冒されているか、その病名が何かということが主として論ぜられる。つまり洋方の診断は、疫病現象が表われている局所において、至れり尽くせりの観察をなし、その局所に対して応急の姑息的手当てのみをなすのである〉
胃病の西洋医学の治療に至っては、〈胃袋を試験管と思っているが如し〉と手厳しい。
●ドイツ医学を採用した理由
それに続けて、なぜ明治政府がドイツ医学を採用したかの分析も興味深い。
中山の論理は、明治維新は、薩摩・長州の政権という性格の理解から始まっている。
明治政府は、最初イギリス人医師、フランス人医師なども招いたがドイツ人医師を招き、東京帝国大学医学部の前身の医学校に配した。
ドイツ医学の全面採用。それが明治政府の医学制度の根本をなしている。その名残りは現在でも残っている。医学用語やカルテ記載用語のドイツ語表記などはこの最たるものだろう。
中山はこう疑問を発している。
〈日本はさきに医学をオランダに学び、次にイギリスに転じて、最後にドイツを師とするに至った。この転学の理由を医家自らも知らず。劣れるものより、より優等なる医学に転じたと考える傾向にある。しかしこれは、転学の根底を動かす社会的原因を知らざるものである〉
日本に最初に入った外国の医学といえば、中国大陸からの中国医学、朝鮮半島を経由した韓医学だった。これを日本流に改良したのが漢方医学ということになる。
江戸時代には鎖国政策をとり、海外の医学を伝えたのは長崎の出島に限って通商を行っていたオランダ。将軍が代わるごとに朝鮮通信史を送っていた李氏朝鮮である。
江戸末期、出島にはオランダ人医師・ポンペが医学研修所を作り、多くの若者たちが学び、日本にオランダ医学を広めた。佐倉順天堂の佐藤泰然、新選組とも交流があり、14代将軍家茂の主治医でのち陸軍軍医総監になった松本良順。明治政府の医学制度を整えた相良知安や長与専斉にしてもポンペや後任のボードインに学んでいる。
オランダ医学が定着してもよさそうだがそうはいかなかった。すでにオランダは斜陽化、オランダ医書の多くはドイツ医書の翻訳だったという単純なことではない。
●江戸末期、薩摩・長州が海外と提携・幕府打倒の原動力に
〈思うに医学の輸入は交流国関係に基づくものである。薩長が天下を取ると、医学の輸入先も自ずと変わってきた〉
と中山は分析する。
明治政府が、維新という美辞で虚飾してこそ今日の日本はあるのだが、歴史上は策を弄して錦の御旗を押し立て、江戸幕府を倒して、薩摩・長州政権を樹立したという現象にすぎないという冷静な歴史の眼も必要になってくる。
薩摩・長州は江戸末期に海外と独自の交渉を行い海外の文化・武器を採用した新取の精神や器量があった。薩摩はイギリス、長州はフランスの後援を得て幕府に対抗。もちろんここには医学も自ずとついてくる。鳥羽・伏見の戦いから会津戦争と続く戦傷者の治療にこれらの医学が貢献したことはいうまでもない。
いつの時代もそうだが戦争の医学に限れば、圧倒的に漢方医学は頼りない医学に見える。
イギリスかフランスという選択があるが、中山はこう記している。
〈長州は当初、フランスの兵制を採用しており、したがって医学もフランス流であった。ところが普仏戦争がありドイツが大勝して、にわかに兵制もドイツを見習うこととなり、模倣の勢い及ぶところ劣等なるその医学までも偶像化してしまい、無反省に採用するにいたった〉
●オランダの医学書はほとんどがドイツの翻訳本だった
医学校御用取調御用掛に明治2年に任命された相良知安(佐賀藩医)、岩佐純(福井藩医)は、当時の医学教育制度、医学校の充実の役目を担っていた。
当時薩摩・長州軍の討幕軍に参加して軍陣病院で負傷兵の治療にあたった英国公使館付き医務官のウイリアム・ウイリスが医学校の教授に決まりかけていた。そのほぼ幕末期に多くのオランダ医学である蘭方医が西洋医学の代表だったが、オランダの医学書のほとんどは、ドイツの医学書の翻訳だったことに気づいたことにある。
幕末期、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、少なくとも鎖国の日本に向けて、武力を背景に開国を強引に迫ったペリーのアメリカのみでなく、各国は日本の権益に狙いを定めていたといっていい。アジアに植民地を持ち、日本もその候補であった。
鳥羽伏見の戦いが始まると、英国公使パークスが、薩摩長州軍に支援を申し出た。西洋医が少なかった薩摩藩・西郷隆盛、孝謙天皇の謎の死からまだ少年だった明治天皇を押し立て、錦の御旗を作ることに成功した岩倉具視もここで暗躍している。英国公使館付き医務官ウイリアム・ウイリスが、京都・相国寺に薩長軍の軍陣病院の設置して、負傷兵の治療にあたった。その後軍陣病院は横浜に移動し、ウイリス自身も北越、会津と薩長軍の医師の指導にあたった。
明治2年には、新政府の医学制度を整える作業が開始されている。医学校の教授に、その貢献度からもウイリスが一番近い位置にした。
ところが、イギリス医学よりもドイツ医学の方が優れていると主張したのが、医学校取調御用掛に任命された相良知安だった。
この背景には、謎のアメリカ人・フルベッキ(宣教師として来日、布教活動は一切せず、幕末期長崎で英語教師となり幕末の志士たちを指導。フリーメーソンの一員)も一役かっているが、これは後述しよう。
ドイツ医学採用で、はじき出されたウイリスは、西郷隆盛が引受け鹿児島の医学校の講師になり、現在の鹿児島大学医学部の基礎を築いた。この明治期のドイツ医学採用に関しての明治政府の動きはさまざまなドラマがある。
●ドイツ医学の錯覚。海外医学全面移入の危険性
ともかく、このドイツ医学の明治政府の全面採用に対して中山の記述を見てみよう。
(陸軍は兵営を国内にもち、一般社会との交渉が密であったので、自ずからドイツ医学の偉大さを社会に宣伝し、ドイツ医学の盲拝を全国に強いるようになった)
さらに明治・大正と続くドイツ医学の崇拝理由として
〈一に陸軍関係、二はコッホの発見やレントゲンの発見を見て、あたかも、医学全部を優秀なるか如く錯覚したのに他ならぬのである〉
中山のドイツ医学に批判は手厳しい。
〈600年前までは『森の蛮人』として知られ。文明的経験浅き民俗の医学である。淘汰を経ておらず優良なるはずがない〉
明治政府にとっては、幕末期に欧米列強と結んだ不平等条約を改正する大命題があったが、欧米列強と似た文化を作りあげることでその実現を図る中、日本固有の文化を捨てることもそのひとつと錯覚した部分がある。医学も例外ではなかったといってもいいだろう。
西洋化を図り、条約改正を目指すことが明治期の発展の原動力ではあった。医学も同様なのだが、これほどまでに盲目的にドイツ医学を崇拝する必要はなかった。
西洋医学の最先端医学こそ、医学発展の道と考える傾向にある現代にも通ずる部分はある。
中山の論理には、一方的な海外医学の輸入だけでなく、日本の独自性も重要なポイントとしているのも興味深い。
●欧州は、自然治療に適さず、遅れた医学
中山は、ドイツ医学を無条件に採用した裏事情を多少記しているが、明治政府がフランスかイギリスの医学を採用したところで、漢方医学の置かれた状況にさほどの違いはなかっただろう。
中山は、明治政府の方針を批判したのち、その返す刃で漢方医学を日本に必要とする理由をこう解き明かしている。
〈元来、医薬品の発見者は、地理的関係からいってもヨーロッパ人ではない。ヨーロッパの山林モミやブナのような落葉樹で、原野といえばほとんど牧草のみといっていいほどである〉
と、薬草というものが、熱帯、亜熱帯地区に集中していることをあげている。
〈自然人は、豊富な植物の中から直感によって霊薬を発見した。すなわち南アメリカにおいてはキナ、コカの発見となり、蒙古やチベットでは大黄を知り、エジプト、アラビアでは阿片を発見、支那においては神農が百草を探した伝説から本草綱目にあげられた千八百種の薬品を発見した〉
ヨーロッパにはハーブ療法、ホメオパシー療法などの伝統療法があるものの、「草根木皮を活用した自然療法を正式な医学として評価する環境がヨーロッパにはなかった」と論じている。
そして中山は「われわれの祖先が、数千年にわたって、経験に経験を重ね、淘汰に淘汰を重ねてきた薬品や薬方を全く度外視するということは、実に無謀というか、迷走というか」と嘆いている。
●西洋医学より複雑で多くの知識を必要とする漢方医学
漢方薬の真骨頂は、単剤ではなく、幾つかの生薬を組み合わせ、相互作用、相殺作用によって、効果をより強く出したり、まるで逆の作用をしたりする。また一剤投与の副作用を緩和することもある。
〈半夏に柴胡や人参を配するをもってすれば、鎮嘔剤となり、これに反して五味子や細辛などをもってすれば鎮咳剤に変ずるのである。また巴豆に配するに桔梗や杏仁をもってすれば峻吐剤となり、大黄と軽粉をもってすれば峻下剤に変ずるのである。発汗の剤は陽薬を得て、その効は益々確実となり、通利の剤は沈降薬を得て、益々その力を深遠するのである〉
このような例をあげて、単に一剤のみで目的を果たそうとする西洋医学の一味主義を批判。その単純な手法を際だたせ、漢方医学の奥深さを強調している。
「漢方薬は原始的」という批判に対して中山は
〈一薬のみの性質を知ったところで漢方薬は運用できない。薬物相互作用を知り初めて運用できるのである〉
と、反論している。
さらに〈西洋医家の中で、漢方薬の薬効を研究している人もいる。しかし、一剤のみの生理作用や医学的効果を論ずるに留まって。生薬相互の関係を明らかにして合成力、複合力の研究は、少しもなされておらぬ〉と嘆いている。
参考:【中山忠直の生涯】第1回 2008年06月27日
以上