中山忠直の生涯 その3
中山忠直の初期作品を検証・多岐にわたる後の作品に影響
by 油井富雄
●ペンネーム中山啓の名で詩集・クロポトキンの翻訳
中山忠直の代表作は、売れた――という次元や社会的に影響度からいえば『漢方医学の新研究』ということができる。この一点において漢方史の中に名前を連ねることになる。
中山の著名入りで書いた原稿は、大正8年を皮切りに雑誌・新聞の寄稿、詩集、翻訳本、単行本、編著本など多数ある。著者として公刊された本だけを上げてもさまざまなジャンルに及んでいる。
中山忠直は本名だが、当初は中山啓(ひらく)のペンネームを使っていた。
大正11(1922)年、詩集『自由の廃墟』、大正13年には詩集『火星』を中山啓の名で出している。
以後は本名の忠直の名を使っている。
昭和2(1927)年の『漢方医学の新研究』に続いて、同年には『日本人に適する衣食住』を出版。『漢方医学の新研究』はフランス語版も存在する。昭和4年『漢方医学余談』。このあたりは医療関連本だ。
昭和6年には『日本人の偉さの研究』。昭和8年には『日本芸術の新研究』、昭和14年には『わが日本学』、詩集『地球を弔ふ』これは英語版(丸善)も存在する。
『日本に適する政治』、インドやフリッピンの独立運動の志士の名を冠した『ボースとリカルテ』という著書もある。
翻訳本では大正8年にはロシアの国家社会主義者クロポトキン著の『田園・工場・仕事場』(中山啓訳述・新潮社・社会哲学新学説体系4収載)があるかと思えば、昭和6年の編著本では『浅田宗伯処方全集』、私家本では昭和10年から13年に出された『如洋画集』全3巻がある。
昭和14年の『わが絵わが歌』、昭和16年の『時代の先覚者藤田勇を語る』、『南洋に適する政治』、昭和18年の『世界収拾策』『わがユダヤ戦線』の書物の形態をとっているだけでもこれだけある。
戦後には書物というより小冊子形態のとった『日本を世界連邦の中心に』、『皇居をたてる国民運動』、『皇太子に新しい御所を』などが出版されている。
代表作『漢方医学の新研究』の著者としてのイメージが強いが、これは中山自身も、ことあるごとに著書の中で記しているが「漢方に関しては、単なる余技」でしかないのである。
詩人、芸術評論家の他に政治思想家の一面もある。思想を左右という表現法で分類すると、初期には左の時期もあったものの、基本的には右翼民族思想家とのレッテルも貼られてしまう。現代においてもそうだが、極めて慎重に論じなければならないユダヤ問題や天皇制に関するものもある。
代表作『漢方医学の新研究』の範疇では語れない人物なのだ。
中山が文筆業として生計を立てる初期の作品を見てみよう。
大正8年、月刊誌『新潮』の3月1日発行号には、巻頭に当時の文壇の幾人かが、原稿用紙、数枚のエッセイを書いている。執筆者は、和辻哲郎、菊地寛、小川未明、佐藤春夫と錚々たるメンバーに混じって中山啓の名で『詩人の迷語に就いて』と題した一文を寄せている。中山24歳。活字となったもので現存するものでは、一番若い世代に属するものだ。
経歴は、後述するが、雑誌『中外』の編集部員、大学の級友だった尾崎紅葉らと毎夕新聞社に勤務していた時期が数年ある。
●初期の文体検証・大正8年雑誌『新潮』に随筆
作家、雑文稼業を問わず、ほぼ、若い時期に使っている文体や言い回しなどは、一生付きまとう。そういう意味においては雑誌『新潮』の記事を紹介しよう
それは〈潮のようにほとばしる感情を、詩や歌に表現しようとする時、常に感ずるのは『言葉は感情の墳墓だ』ということだ。晶子が『創れば創るほど不安を感ずる』といったように、誰でも自分の詩が、その感情の半分も表現できていないと感ぜぬ詩人はあるまい〉
という言葉で始まっている。
北原白秋、三木露風の例を出し、これを評価する文芸評論家を槍玉に挙げている。それは一人よがり、分かりにくいとして<詩人の迷語>と言い切り、「詩人は皆、狂人だ、迷語家だ>という。
〈言葉は詩人の感情を盛ることが出来ぬかといえば、それは言葉は本来、詩や美しい感情の表現の符号でないからである。すなわち言葉は個人の純主観的な感情なり思想を表すために出来たものではなく、単に種族の保存のために自他の間や思想、感情を交換するための符号として発達したものに過ぎぬ>
中山は、『自由の廃墟』『火星』の2冊の詩集が出版されるが、その多くは、少年時代からこの『詩人の迷語』の論稿を書いた時期の作品である。言葉の探究者としての強い自覚ののもとに書かれたものだ。
〈詩人の迷語は、以心伝心の符号だ。これは言葉ではないのだ。言葉でもって表しえる安価な感情ではないのだ。釈尊の心情を理解しえた者は、彼が衆僧を集めて無言で蓮華を高く差し上げた時に、破顔微笑した迦葉一人ではなかったか。釈尊言葉なく、迦葉言葉なく、しかも千万無量の言葉は、二人の心の中を流れ交じったのである〉
言葉のもつ限界を強く意識し、あくまで言葉を駆使する者は、本人の強い意志や感情を乗り移ったものでなくてはならない――魂の発露というべき言葉でなくてはならない。そんな意識のもとに書かれたものだと思うと、中山のその後の雑誌、新聞記事、単行本にみられる、時には感情が先走った文章や行動がいとおしく思えた。そして脳卒中となって自力歩行はできず黙々と書き続けた生涯に思いを馳せた。
少なくとも、この一文だけ最初に読めば、文の真意も理解できなかった。そういう意味では、この一文は世間の評価の対象でもなかったし、中山の詩もまた、注目も浴びることもなかった。
ただ、その中山忠直という人物の生涯の魅力を示唆するのには十分だった。(続く)
参考:【中山忠直の生涯】第1回 2008年06月27日
中山忠直の生涯2 2008年07月16日
参考:漢方医学の新研究―西洋医学と東洋医学の実証的比較 (1974年)
日本人に適する衣食住 (1927年)
アジアのめざめ―印度志士ビハリ・ボースと日本 (伝記叢書 (189))
以上