大使館国際関係史―在外公館の分布で読み解く世界情勢大使館国際関係史―在外公館の分布で読み解く世界情勢
著者:木下 郁夫
販売元:社会評論社
発売日:2009-04
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 当方の有料サイト「ニュースソース・NewsSource」(有料版)の読者で、時々、鋭いコメントを書いてくれる「一如」さん。

 奇妙な偶然から、彼の新著を紹介します。
 当方で目にとまったのが、先週の日経書評欄。

大使館国際関係史―在外公館の分布で読み解く世界情勢

 という書籍の書評でした。
 たまたま、偶然に、この書評欄をみて、当方のボスから、「アマゾンで注文するように」という指示がありました。
 当方では、「アマゾンのアフィリエイト」を張っています。
 つまり、当方のサイトから、書籍を注文していただくと、2−3%のコミッションがアマゾンの図書券として貯まるわけです。ここで、貯まった図書券で、気になった書籍を注文することができます。ま、主にうちのボスが注文することが多い。
 そこで、注文したところ、なんとうちの有料サイトの読者さんの著作であったことがわかったわけです。

 早速、著者からの自薦を寄稿いただきました。

 しかし、この書籍。

 出版社/著者からの内容紹介では、

なさそうでなかった!
国際関係マニア・外交オタク・大使館萌えには刺激が強すぎる!
なんでこんな国にこんな国の大使館が!?
時代・国ごとの在外公館の分布を
絨毯爆撃的+ローラー作戦的
に徹底抽出+分析+解説!
分布表+地図+グラフ+在東京大使館全ての写真=251
であらゆる国際陣営&二国間関係が一目瞭然!

 と書かれています。
 まさに、ありそうでなかった一冊なのです。

大使館国際関係史―在外公館の分布で読み解く世界情勢大使館国際関係史―在外公館の分布で読み解く世界情勢
著者:木下 郁夫
販売元:社会評論社
発売日:2009-04
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 ということで、筆者からの自薦です。


小著では在外公館をめぐる事例をひろく集めることに徹しましたが、含意するところはそれにとどまらないと自負しています。本来なら、読者諸氏に「微言大義」をお汲みとりいただくところですけれども、史書は史書でも『春秋』のように公羊伝や左氏伝のような注釈書がでることは期待できないので、この場をお借りして「大使館史観」なるものを包み隠さず語ってみようと思います。以下は小著そのものの紹介でなく、その所見と事例を応用してみた議論です。
 紹介についてはとりあえず・・・・
http://governance.cocolog-nifty.com/veracity/
 をご覧ください。


民主国家はその国民の知的水準を超えた外交をもつことはできません。さもなくば、それは外国に操られた二人羽織の傀儡外交であるはずです。数年まえの不祥事以来、日本外交の「不思議さ」にたいしての批判が絶えません。麻生総理は外相であったこともあり、外交には一家言もつとみえますが、他方で外交当局の組織利益を反映しているような気もします。批判すべきところは批判すべきですが、国民もわが身を振り返り、時流にながされない見識をもつ時です。

まず「名を正さんや」、というのが小著にたいする筆者の意図でした。国家は倫理的存在です。それが人間の集合体である以上、政策は説明されねばならないからです。外交は倫理的存在同士の相互作用ということになりますから、二段重ねで倫理的な営みということになります。つまり、大使館の歴史は国際倫理の歴史ということにもなるわけです。

たとえば、帝国主義についてみてみましょう。それが悪いもの、というのはもはや社会通念です。小著では「ピラミッド型秩序」、「保護権」、「傀儡君主制」、「居留地」などの概念で帝国主義を描写しました。これらはどれも外交の制度です。はしなくも政治家たちが世論の批判を気にしてつくりあげたものです。

ところが従来、ヘゲモニー(覇権)という言葉で表現されていたものをネグリとハートが「帝国」と表現して以来、一流の学者さえも帝国概念を濫用するようになりました。帝国主義を独占資本主義と規定したレーニンの影響もあるかもしれません。彼の『帝国主義』自体、世界の分割がどのような政治過程で遂行されるか曖昧にしたままの著作でした。しかし、帝国主義は自由、進歩、安全といった当時の倫理感のなか公論をまえに育まれたものであり、闇の勢力がすべてを動かしたわけでありません。闇の勢力はヘゲモニーを握って政局を方向づけることはできても、絶対的権力である帝国を運営することはできません。ヘゲモニーでなく帝国という概念をつかうことで、不気味感を増強する効果が生じるのです。帝国主義外交の詳細をよくしれば、彼らの「帝国」が歴史上の「帝国」といかにちがうかわかるはずです。

話はかわって、チベットの地位をとりあげます。1950年までそれが独立国であったという主張にテレビやインターネットでよくお目にかかります。実際は1907年の英露協商がチベットを外交の真空地帯としていました。つまり外界から隔絶した桃源郷のような状態におかれ、主権国家システムのメンバーではありませんでした。独立は多くの国と外交関係をむすぶことでみずからかちとるものである、というのは何度も本書のなかで述べたことです。

こう書くと中国ベッタリと思われるかもしれませんが、積極的な現状肯定派というわけではありません。先日、アメリカ合衆国の下院委員会でラサに領事館を設置する法案が可決されたとの報道がありました。チベットが真に自治区であるならば特殊な政策をとる同政府にたいして自国民保護のために領事官を派すのは道理にかなっています。それに地理的に隔絶されているので、紛失したパスポートをそこで再発行できれば旅行者の便になることはいうまでもありません。自治は領土保全と同様、国連憲章上の原則です。安保理の常任理事国とて例外であってよいはずありません。世界各地で自治原則は拡大解釈され、民主的な選挙を当然のものとする根拠としてさえ受けとめられています。

帝国主義のような古い時代ばかりでなく、現代のナショナリズムを考えてみましょう。日本国憲法も「われら日本人民は」(英語版からの直訳)ではじまるポピュリズムの所産です。外交においても、「国権の最高機関」の実力者があたかも元首であるかのように振る舞っています。「象徴天皇」は外国要人と表だっては政治の話ができません。そうした要人を平気で与党の派閥が料亭に接待します。これはある意味、憲法に忠実なことです。

もっともポピュリズムを体現した運動といえば、非同盟が挙げられます。「傀儡」を拒否したチトー、ネルー、スカルノ、ナセル、ンクルマの闘争は外交の近代化に貢献しました。新しく「平皿型秩序」、「主権」、そして「大統領」がもたらされました。エジプト、インド、キューバ、リビア、イランなど非同盟のリーダー国は今でも沢山の在外公館をおいています。

しかし、国家主権をおしだした主張は、平和への脅威を内包していました。北朝鮮をとりあげましょう。それが核不拡散条約(NPT)から脱退通告をし、核・ミサイル実験をしたところまでは国際法に違反していたといえるでしょうか? 反対に、いくら気にいらないといっても「悪の枢軸」や「テロ支援国家」を攻撃することは合法でしょうか? 帝国主義時代ならば、大国間の「協商」によって処理されたところです。しかし現代では、主権の短所をそれにより解決することはできません。外交関係の断絶ではまったく不十分です。ここは発想を転換して、小国の生存を可能にしているのは国家連合としての国連なのであるから、大量破壊兵器やテロリズムについても国連の権威をみとめなさいというのがもっともすっきりした議論といえるでしょう。

パレスチナ国家独立の可能性について考えるときも、国連はナショナリズムと国際主義のバランスという難問にたいするひとつの解法となりえます。カントが唱えた「市民的体制」は必要であると思います。

これをユートピアニズムという人がいるかもしれません。しかし、当事者たちもどこかで折り合いをつけなければならないのです。そうでないと核兵器と温暖化の時代には、冗談ぬきで地球が破滅してしまうからです。相互の破滅にいたる「囚人のディレンマ」ゲームのお話には倫理学がありませんでした。それを回避するにはどうしても倫理をもちださなければならないのです。

以上、思わぬところに話がいってしまいました。言いたかったことは在外公館の研究は倫理の訓練になるということです。もちろん「大使館史観」はまだ未熟ですし、小著の事例からは、私のとはまったく異なる「史観」が抽出できるかもしれません。

世には、原理的なことだけから、あるいは逆に例外的なことだけから真理をひきだすことが多々おこなわれています。ネット社会の皆様におかれましては、事例のなかから歴史のパターンをブレもろともつかみだそうとする私の方法論をどうか理解していただきたいと思います。