遠藤顧問の歴史だよ!  
第二十六回目 “創作”から“史実”へ
by 遠藤顧問



小見出し

歴史認識の大きなギャップ

信長の伝記

小瀬甫庵(おぜ ほあん)という小説家

参謀本部の古戦史研究

『信長公記』が描く桶狭間の戦い

残念なこと、悔やまれること



・・・・・・・・・概要・・・・・・・・・・

 


 「とりわけ信長については、近世の幕を開けた人物とか、あげくには近代の先駆けをなしたなどと、もてはやされることも多いが、実際にはどのような領国支配をしていたのかすら、ほとんどわかっていない」(黒田基樹氏)

 歴史好きな人は、今川義元を破った桶狭間(おけはざま)での迂回による奇襲攻撃、当時最強と言われた武田軍に対する長篠(ながしの)の戦いでの鉄砲三段撃ちなど、具体的な例を上げて、信長の天才的な戦術を賞賛する。また企業の経営者の中には、桶狭間の戦いで、義元を討ち取った毛利新助よりも、今川軍主力の位置情報をもたらした簗田政綱(やなだ まさつな)が勲功第一とされた話から、信長は「情報の重要性」をよく認識していた、革新的なトップであると絶賛する人も少なくない。

 小瀬甫庵(1564年〜1640年)は、桶狭間の戦いから半世紀が過ぎた頃、牛一の『信長公記』を自分流に書き直して、「信長記」という本を刊行した。現在、「甫庵信長記(ほあんしんちょうき)」と呼ばれているこの本は、今の言葉でいえば、“ベストセラー”となり、広く大衆に親しまれたのであった。
 これは、“読み物”として面白くするために、事実を歪(ゆが)めたり、誇張したりするほかに、ありもしない合戦を創作するなど、甫庵独自の創意工夫が随所にちりばめられた小説であった。

 では、本当の「桶狭間合戦」とは?

  以前、『裁判官の歴史認識』で言及した加藤玄智(1873〜1965年)の創作などは、「甫庵信長記」と同じような悪影響を今も我々に与えている。
 加藤の創作(彼が「こうあるべきだ」として想定した理想状態)は、それを無批判に受容してしまったホルトム(アメリカ人の宗教研究家)やバンス(GHQ民間情報局の宗教班責任者)によって史実化されてしまった。さらにそれは、宮沢俊義(東大名誉教授、『憲法』有斐閣などの著者)ら、権威ある学者たちの著作で増補されて、結局、「明治憲法によって天皇が現人神(あらひとがみ)とされて以来、日本政府は国家神道を半世紀以上の間、国教としての立場に置いた。そして、国家神道思想の教育を国民一般に対して行ったため、それが日本という国家を支え統治する思想となったのである」といったものが、戦後の定説となった。

 この定説は、当然、戦後の裁判官たちの頭の中に、すんなりと刷り込まれていった。

 彼らが下した判決(昭和52年の津市地鎮祭事件・最高裁判決および平成4年の愛媛県知事玉串料等奉納事件・高松高裁判決など)は、史実ではなく、加藤玄智という一人の宗教学者の創作に基づいて生まれたものなのである。
 加藤が「こうあるべきだ」として想定した理想状態は、昭和10年代の後半に現実のものとなった。日本が国家存亡の危機に直面したためである。国家存亡の際には、伝統的なものが国民を統合するために利用されるのは、どこの国でも同じである。
 天皇を現人神と仰ぎ、教育や政治を支配するような「国家神道」の寿命は、ほんの「数年間」でしかなかった。それは「半世紀以上の間」続いたものではなく、まさに“短期間の異常事態”だったのである。

 かつての軍部、現在の裁判所。両者の分野は異なるが、いずれも権力を有している点で、変わりはない。人の人生そのものを左右するほどの絶大な権力である。それらが、“創作”を“史実”とすることなど、決してあってはならないことなのである。

 小瀬甫庵や加藤玄智らの創作、その内容は現代に生きる“亡霊”とも言える。
 我々自身がそれを退治しない限り、日本国民は将来にわたって悪しき影響を受け続けるであろう。

・・・(以上 本文より)・・・

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創作”から“史実”へ 2009年10月2日